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深海の羽衣〖壱ノ箱〗
箱の蓋を開けると、強烈な光があふれ出し、私を飲みこんだ。あまりのまぶしさに、とっさに目を閉じたけれど、光は容赦なく目蓋を突きぬける。思わず手をかざした。
しばらくすると光は収まり、波の音と潮の香りが私を包みこんだ。目を開けると、目の前に広がっていたのは故郷の景色だった。そして背後には、私が生まれ育った家がある。
手元にあったはずの記憶の箱は、どこにもなかった。
そんなことより……。
私は自分の両手を見た。明らかに子どもの手だ。身長もずいぶんと低い。私は急いで家の中に入ると、鏡を探してのぞきこんだ。
小学校一年生……ってところかしら。
浦島太郎は玉手箱でお爺さんになったけれど、どうやら私は、記憶の箱で子どもになってしまったらしい。しかも意識だけは、大人のわたしのまま。
記憶が襲いかかることと子どもになることの間に、いったい、どんな関係があるというのだろう。鏡をのぞきこんだまま、腕を組んで首をかしげた。
「おやおや、鏡とにらめっこかい?」
よく知っている声に驚いて振り向くと、今朝、この世を去った祖母が、くしゃくしゃの笑い顔をたたえて立っていた。もちろん、病院で見た祖母よりもずっとずっと若い。でも、そんなのはどうでもよかった。
「ばあちゃん!」
嬉しさのあまり祖母に駆けよると、その胸に思いきり飛びこんで、大声で泣いた。
「あれあれ、どうしたの。怖い夢でも見たのかい? さ、こっちにおいで。」
そう言うと、祖母は、私をそっと抱きしめた。
ああ、そうだ。このぬくもりだ。
幼いころ感じていたのと同じぬくもりの中で、徐々に落ち着きを取り戻していった。
私は今、自分の記憶の中にいる。そして、自分の記憶を追体験しているのだ。記憶が襲ってくるというのは、きっと、嫌な記憶も再生されるからなのだろう。羽衣を探す者は、それに耐えねばならない、というわけだ。
私は、涙をふいて顔を上げた。そして、ありがとうと言って、にっこり笑った。
「ばあちゃん、もう大丈夫よ。がんばるわ。」
祖母は、そうかい、と言って不思議そうな顔をした。祖母の顔を見て、自分が小学生だったことを思い出し、子どもっぽい笑顔を作って見せた。
「大丈夫ならいいんだけどね、とにかく、無理はするんじゃないよ。」
祖母は、そう言うと、私の頭をなでた。
「あーそーぼー。」
外から女の子の声が聞こえた。きっと、私を呼んでいるのだろう。
「行っておいで。」
「うん。」
私は、今、子どもなのだ。変に思われないためにも、行動や言葉に気をつけなければ。
「ばあちゃん、行ってくるね。」
私は、はあい、と声に向かって返事をすると、急いで靴を履き、外に出た。
赤いスカートの小さな女の子が、満面の笑みで立っていた。ああ、この子は……、ふと、遠い昔の記憶がよみがえった。
「ねえ、なにして遊ぶ?」
「うーんと、ゴム飛び!」
小さな田舎町だから、ここに暮らすほとんどが、家族ぐるみの付き合いをしている。彼女の父親は、山で狩りをする猟師をしていた。
「お父さん!」
ゴム飛びの途中で、その子はこちらに近づいてくる男性に駆け寄った。山での仕事を終えて、帰ってきたところだったのだろう。
ああ、思い出した。
あのとき、私には『オトウサン』という言葉がどんな意味を持っているのか、よく分からなかったんだっけ。だって、お父さんという存在を知らなかったんだもの。でも、オトウサンに抱きしめられている彼女がうらやましかったんだわ。
だから──、
「私にだって、じいちゃん、いるもんっ。」
確か、こんなことを言ったのよね。その後は……、ああ、そうだわ。
私は、縁側の祖父を目指して全力疾走すると、祖父のあぐらにすっぽりと納まった。
理由はよく分からないが、私は祖父の近くには行こうとしない子どもだったと、母や祖母が話していた。記憶はあいまいだが、祖父が嫌いだったことは、よく覚えている。そんな私が、祖父のあぐらに納まったのだ。後にも先にも、このときだけだったらしく、何かにつけて話題にのぼった。
幼心に劣等感があったのね、きっと。
祖父のあぐらの中で、幼い頃の私を思った。
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