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「宿題? まだやっていないよ」
息子の言葉にリビングの空気が凍った。
俺は今年で10歳になるひとり息子をじっと見て、夕食をキレイに平らげた息子もじっと俺を見る。
「ちょっと待って、学校が始まるのはちょうど一週間後よね?」
冷蔵庫からビールを取り出していた妻は、震える声で息子にたずねた。息子は妻の方を見ずに、俺を見つめたまま首を縦にふる。
ちりん。と、夜風が風鈴を鳴らし、遠くから蝉と鈴虫の声が聞こえてきた。秋虫の声が夏の終わりが近いことを告げているも、宿題という夏の置き土産が現実となって迫ってくる。
タケルはいつも、夏休みの始めの一週間で宿題を全部済ませてきた。
だから今年もそうだろうと思っていた。いや、思い込んでいたというのが正直なところだろう。共働きの両親を気遣っているのか、息子はとても大人しく、手もかからず、妙なところで頑固で負けず嫌いだ。
だから息子の性格上、わざわざ「まだやっていない」なんて自己申告はしてこない。実際に宿題のタイムリミットが一週間迎えようとも、黙って一人で解決しようとするのが容易に想像できてしまう。妻もそれが分かっているから、事の深刻さを理解して眉をひそめた。
「わかった。それじゃあ、出来る限り手伝うから。なんでも言ってくれ」
「私もついていてあげるから、一緒に頑張りましょう」
「よかった。ありがとう、お父さん、お母さん」
まずは、息子の宿題の量の確認。次は自分と妻のシフトと有給の調整だ。
場合によっては、両親がそろっていた方がいいのかもしれない。
そんな予感がした。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
タケルが小学校にあがるのと同時に、千葉に一軒家を立てた。俺も妻も通勤時間が二時間越えになり、同居の義母がいなかったら乗り切ることができなかった。
その義母が他界したものの、タケルは義母に家事を仕込まれていたことで、一安心した。タケルが小3の時だった。それからは、会社に泊まるのはしょっちゅうで、早く家のローンを返そうと、休みなく働いてきたことのツケがまわってきた。
親子三人が珍しく揃った食事の席は、一転して家族会議の場となり、テーブルに並べられた宿題の束の多さに、妻の顔は蒼白になる。
「まさか、本当に手をつけていないなんて」
各教科のプリントの束、漢字と計算のドリルに自由工作と読書感想文。植物の観察や絵日記がなくて胸を撫でおろしたものの、見慣れない宿題の項目に俺は目を疑った。
●動画配信サイトでもいいので、保護者同伴で映画鑑賞をして、お子様と一緒に感想文を書いていただきます。最低でも400字詰めの原稿用紙3枚程度でお願いします。
「あー。これって、あれよね。ネットでコピペとか、AIを子供が使わないように、保護者を巻き込むってわけね。こんな時、お母さんがいてくれたら頼むのに」
学校で配布された宿題リストに目を通した妻は、頭が痛そうにこめかみを揉んだ。
「なんか私達の世代より、宿題が多いしめんどくさくなっている気がする。代行サービスに頼る気持ちも分かるわ」
「けど、親が代行を容認するもんでもないだろうが。子供のためにもならないよ」
とはいえ。
「なにか観たい映画はあるか?」
なにげなしにタケルに訊くと、タケルはあらかじめ、何度も練習してきたかのような切実な声音で言う。
「【ビビと約束の魔法】を、お父さんとお母さんで一緒に観たい。水曜日の午前中に!」
「ふぅーん。それでいいのか」
タケルの要求は妙に具体的でひっかかりを覚えた。明らかにその場の思い付きではなく、水曜日の午前中という時間帯が限定されており、かつ両親がそろっていなければならない――とは。
「映画館はここがいい! 絶対、ぜーったい! だよっ!」
「あ、あぁ。わかった。わかったから」
前のめりで、タブレットの画面を見せるタケルに俺は辟易した。
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