第1話

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第1話

 本来なら上司たちが書くべき報告書の代書を済ませた京哉(きょうや)は、在庁者に茶を淹れるために席を立った。  給湯室でトレイに湯呑みを並べて茶を淹れると詰め所に戻り、早めの晩飯休憩で帰ってきた隊員たちに茶を配り歩く。これも秘書たる京哉の大事な仕事だ。  最後に上司二人のデスクにも茶を配給し、ついでにノートパソコンの画面をチェックする。  溜息を呑み込んだ。 「霧島(きりしま)隊長、小田切(おだぎり)副隊長。いい加減に麻雀対戦をやめて仕事をして下さい」 「堅いことを言うな、鳴海(なるみ)巡査部長。書類は腐らん」  低い声で霧島が口癖を披露したが、京哉は怯まずにっこり笑って宣告した。 「本日朝、三度目の督促メールが来ていたその書類は腐りませんが、待てど暮らせど届かない書類に業を煮やして捜一課長の剛田(ごうだ)警視が怒鳴り込んで来たら、きっと絞め殺された貴方がたの遺体は腐るでしょう」 「だったら、それをフォローするのが秘書たるお前の仕事ではないのか?」 「僕が今週代書した書類は既に二十三通です。麻雀に嵌ったり、週間献立レシピを眺めたり、居眠りしたりしている上司たちをフォローするにも限度があります。それにご存じの通り、僕は人並外れて嗅覚が鋭いんです。腐る前に鑑識、いえ、生ゴミ行きですから」  さらさらと言って京哉はメタルフレームの伊達眼鏡を中指で押し上げ、自分のデスクに戻ると煙草を咥えてオイルライターで火を点ける。  ニコチンでも摂取して落ち着かないと怒鳴り出しそうだったのだ。再び上司たちの方をチラリと窺うと京哉の苛立ちに気付いたのか、ようやく麻雀対戦を中断して報告書に手を付け始める。  ノートパソコンのキィをポチポチと打つ霧島の長い指をじっと見つめた。その左薬指には京哉とお揃いのプラチナのリングが煌めいて、澄んだ輝きを眺めていると怒りも溶かされそうになるが、ここで手綱は緩められない。  ここは首都圏下の県警本部庁舎二階にある機動捜査隊・通称機捜の詰め所である。  機捜隊員は普通の刑事と違い二十四時間交代という過酷な勤務体制で、覆面パトカーで密行と呼ばれる警邏をし、殺しや強盗(タタキ)に放火その他の捜査一課が扱うような凶悪事件が起こった際に、いち早く駆けつけて初動捜査に当たるのが職務だ。真っ先に現場を見るので簡単な鑑識の知識も必要とし、県警本部の花形・捜査一課の登竜門とも言われる。  故にかつてはベテラン勢が占めていたが現在は若い隊員が多くなっていた。それも隊員は所轄署等での刑事の経験を必要とする。  初動捜査のみですぐに犯人検挙に至らなければ該当する担当部署に申し送ってしまうが、次々と発生する案件に拘らず対処しなければならないので決してヒマではない。  それらの書類も積もる訳である。  ここでは隊員たちは三班に分かれてローテーションを組んでいた。  だが隊長と副隊長にその秘書は内勤が主で、八時半出勤・十七時半退庁という毎日である。大事件が起こらない限りは土日祝日も休みだ。  そして本日は金曜日、しかし先週から溜め込んだ関係各所からの書類の督促メールが残り四通という、ある意味修羅場だった。    つまり今週分の書類には手もつけていない状態なのである。  だからといって自分ばかり働くのに疑問を呈した鳴海京哉は二十四歳にして巡査部長二年生で結構優秀な刑事と言っていい。更に機捜隊員でありながらスペシャル・アサルト・チーム、いわゆるSAT(サット)の非常勤狙撃班員でもあった。  SAT狙撃班員になったのは京哉が元々スナイパーだったからだ。  無論合法ではない。  女手ひとつで育ててくれた母を高二の冬に犯罪被害者として亡くし、天涯孤独の身になって大学進学を諦め、警察学校を受験した。その入校中に抜きんでた射撃の腕に目を付けられたのだ。  卒業し配属寸前に警察庁(サッチョウ)上層部と繋がった『上』の者に呼ばれ、顔も知らない父親の強盗殺人の罪を知らされたのである。勿論真っ赤な嘘だ。  だがまさか警察内で犯罪の捏造が行われるとは思っても見なかった京哉は、疑う余地もなく嵌められた。オリンピック強化選手の名目で毎日数千発も狙撃銃を撃たされて、京哉の天賦の才は更に磨かれ、命じられた狙撃を一度たりとも外さなかった。  こうして政府与党の重鎮とサッチョウ上層部の一部に、世界各国に支社を持つ巨大総合商社の霧島カンパニーが組織した暗殺肯定派に陥れられて、本業の警察官をする傍ら五年間も政敵や産業スパイの暗殺をさせられていたのだ。  けれど約一年前の春に霧島と出会って京哉は心を決めスナイパー引退宣言をした。自分が憧れていた警察官の姿を霧島に見て、あまりにかけ離れて戻ることはできないと知りつつも自分なりに結論を出したのだ。  自分も『知りすぎた男』として暗殺されると承知した上で命を懸けた決心だった。  しかし三つの銃口に囲まれ、あわやという処で霧島が機捜の部下を率いて飛び込んできてくれたお蔭で生き存えた。  そのあと霧島カンパニーはメディアに叩かれ株価も暴落して一時は企業体としての進退も迫られそうになったが何とかしのぎ切り、現在は却って株価も上昇傾向にある。暗殺肯定派の関係者は警視庁が一斉検挙した。  京哉がスナイパーだった事実に関しては警察の総力を以て隠蔽されたため今はこうしていられるのだが、霧島は京哉を助ける際に勝手に機捜を動かした職権濫用を咎められてしまい、当時の県警本部長が暗殺肯定派だったこともあって八つ当たり的に厳しい懲戒処分を食らってしまった。  普通は懲戒を食らうと以降の昇任が事実上不可能となるために誰もが依願退職するが、霧島は警察を辞めなかった。  何故なら京哉と出会って暗殺スナイパーをさせられていると知った霧島はたった独りで暗殺肯定派関係者の全員検挙を企んだのだ。  様々な人脈や個人の思考パターン、組織内部での動きまでをも計算し尽くし、自身の懲戒までも含めて全てのシナリオを描き、最終的に見事に暗殺肯定派一斉検挙に持ち込んだのである。  京哉のことがバレると拙いので警視庁まで動かしての検挙の罪状は汚職だったが、それはともかく霧島自身が立案したプラン通りに事が運ぶよう、イレギュラーな事態にも対処可能にするため警察を辞めず内側から見守っていたのだ。  当時の本部長は勇退という形の退職に追い込まれた上に退職金も全額返納、現在の本部長は暗殺反対派の急先鋒だった人物で京哉の事情も知っている。  京哉自身も所轄署から機捜に異動して霧島の傍にいられるようになった。更には侘しい官舎住まいから霧島のマンションに越して二人暮らしである。  こうして思っても見ない幸せに恵まれたと思っていたら陥穽があった。  霧島とセットで『知りすぎた男』二人は特別任務と称する極秘の職務にたびたび就かされ、他国で銃撃戦だの国連安保理だのといった遠い目になるようなモノと関わらされるようになったのである。  理不尽すぎて腹の立つことも多いが、しかし根が真面目な京哉は自分が他者を撃ち砕いてきたからだと思ってもいた。  どれだけ幸せでも、逆にどれだけ自分が理不尽な目に遭わされても、京哉は自分が撃ち砕いてきた人々を忘れない。忘れないために生かされている、だから幸せだったり人一倍つらい思いをしたりするのだと最近は悟ったかのような思考を得ていた。  齢二十四にして後光が射しそうである。  ただ相棒(バディ)であり一生涯のパートナーを誓い合った霧島も一緒に特別任務を拝命する以上は京哉と同じ目に遭う訳で、そればかりはちょっと心苦しい。  警察官の鑑と言われ人命を誰より尊ぶ年上の愛し人が、特別任務では銃で敵に風穴を開けなければ自分が殺されるというシチュエーションに放り込まれるのだ。  敵にも事情や大切な人があって……などと考えるヒマなどない。  やはり理不尽だ。  だが幾ら京哉が心苦しく思っても、それと書類を滞らせるのはまた別の話である。
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