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いい匂いがどこからともなく漂っている。夕暮れと呼ぶには少し遅くて夜と呼ぶには少し早いそんな時間。そんな曖昧な時間の中を、不安定なパンプスの最大速度を駆使しながら帰路を急いでいた。
今日はたまたま、本当に少しだけだけど早く上がることができたのだ。
むしろ今日という日に早上がりを許してくれた先輩には感謝しかない。代わりに明日、営業終了後に会議が入ったらしいのだけど。本部の人間には恨みしかない。
駅から少し離れたマンションの一室をめざしてヒールを鳴らす。いつもは耳をついて煩わしいそれすらも、今日は小気味よく聞こえるのだからなんて単純なんだろう。
エントランスと呼ぶにはお粗末なホールを抜けてエレベーターを叩く。開き切らないドアに滑り込んで5階を連打。目に入った短く切りそろえた爪は、化粧品とアルコールとで、今朝はまだあった艶が無くなっていた。今日も美容液が必須みたいだ。
いつもの独特の浮遊感に包まれながら上昇していくそれに身を任せる。だんだんと美味しい匂いが近づいてきている気がしてならない。とんとんとん、と無意識につま先が床を打つ。
ぽん、と音を立てて止まったエレベーターがこれまた開き切る前に隙間から滑り出て、目指した部屋は507。扉の前に立つとやはり漏れ出していた温かな空気と食欲をそそる刺激に、いつものこととはいえわくわくしてしまう。今日は、念願の。
「ただいま!」
勢いよく玄関に飛び込んで履いていたヒールを脱ぎ捨てて、大好きな背中目がけて飛び込んだ。
「もー、料理してるときに飛びつかないっていっつも言ってるじゃん」
「だって!」
「はいはい」
着替えておいで、と降ってくる声は暖かくて柔らかくて、毎日好きが積もっていく。一撫でされた頭にへへと笑っておとなしく着替えることにした。靴揃えてね、と背中の向こうから跳んでくるお小言はちょっと無視。寝室にまっすぐ向かう。
先日の販売ランキングで一位になったお祝いをしよう、と言ってきたのはつい昨日のこと。百貨店のBAの私と、真夜中に営業するバー店主。生活時間の何もかもが反対な私たちがこうして一緒に生活できているのは、ひとえに彼の気遣いのお陰だと思っている。
好きなことを、好きなように。
大切なものを互いに守りながら、守ろうと試行錯誤しながら、こうして同じ屋根の下で共存してもう何年経つだろう。
秋の新作を研究と宣伝にふんだんに使った武装メイクを解いて、きっちり綺麗めお姉さんなユニフォームも脱ぎ捨てて、ついでにまとめた髪も解いてすっかり家モードだ。
「陽ちゃん」
「はあい」
「もう盛り付け終わるよ」
「今いきます!」
ほんの数歩先で立ち上る湯気が美味しい匂いを届けてくる。ううん、最高。
「さ、食べよっか」
「「いただきます!」」
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