君が届かなくて

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 僕が目を覚ましたとき、そこはもう事務室だった。桂里奈が心配そうにそばで座っていて、僕が目を開けたのに気付くと「大丈夫?」と聞いてきた。僕は額の桂里奈の濡れたハンカチを掴みながら「平気だよ、もう。」と言った。それから桂里奈は泣き出したのだった。  それというのもそれは水族館に桂里奈と来てイルカを眺めたりしていたときだった。はしゃぐ桂里奈と反対に僕は冷めきっていた。僕はホモセクシャルティである。分かってるくせにわたしと付き合って、と泣きそうにいう桂里奈との最初で最後のデートである。気持ちは分からなくもない。きっと顔が好みなのだろう。桂里奈はペンギンショーの時にはしゃぎすぎて、いささかぐったりした面持ちだった。そのとき最前列にいた僕の目の前を通った男性がいた。黒髪さらさら、切れ長の瞳。彼と目があった時…  --よりにもよってこんなときに僕は恋に落ちてしまったのだ。  思わず彼の手を掴んで見上げると彼は怪訝な顔をしてこちらを見た。きれいな顔だ。桂里奈が横で悟ったように青い顔をしている。 「あの、お名前は…」  真っ赤になりながら聞く僕に彼は「はぁ?」と言って手を振りほどこうとした。そのまま離すまいと思わず手を強く掴むと…、彼に殴られたのだった。  事務室で少し休憩してから部屋を出て事務員さんを探すとさっきの彼がいた。 「悪かった。あんた、デート中だろ。」  暗にデート中だからそんなことはしてくれるな、と聴こえる。桂里奈は後ろで睨んでるらしかった。 「君、その…名前は?」  キョトンと首をかしげると彼は屈託なく笑って、僕の頭に手を置いた。 「変なやつ。」  そうして去っていこうとするのを僕はなんともいえない気持ちで見送った。さっきは惚れた弾みで手を引っ張るなどという真似が出来たが、もう勇気がない。  …子供扱いされた。確かにまだ高校生だし、彼は社会人だ。  そのとき桂里奈が後ろで突然「あの、わたしも名前知りたいです!」と声をあげた。彼は驚いて振り返った。僕は桂里奈を見なかった。きっと泣きそうに必死だろう。 「そんなに俺の名前が知りたいの?」  彼は楽しそうに笑うと「いいよ」と言ってくれた。 「高山秀明。君たちは?」 「わたし会津桂里奈」  僕はカラカラの喉に唾を無理矢理飲み込む。 「僕は…祥太です。あの、秀明さん」  彼は片眉をあげる。 「またきてもいいですか…?」  何度も唾を飲み込みながらそういうと彼はニヤッと笑って「またおいで?」と言ってくれたのだった。  その日、桂里奈にはバイト代を奮発して、ブランドものの化粧品を買ってあげた。桂里奈は下着を買ってほしいと申し出たけど、お断りした。気落ちした彼女に「今日はありがとう」と言うと「ううん、いいの!また行こうね!」と次の約束を示唆するようなことばを投げ掛けられた。  それから僕はその水族館に足しげく通った。桂里奈がいるときもあったし、僕一人でいくときもあった。秀明さんは大抵事務室にいて、また来たのか、と片頬をあげて仕方なさそうに笑ってくれた。  秀明さんに関する情報が日々増えていく。年は三十七歳、趣味はパソコンゲームと読書。誕生日6月23日。独身、恋人なし。僕は日々が桃色で浮かれていた反面、反省した。ちょっと桂里奈に冷たくしすぎたかな。桂里奈だって僕にこんな気持ちなのだ。僕は女性とキスしたりセックスしたくないあまり、少し遠ざけようとしていた節があったかもしれない。女性とそういうお付き合いが出来てこそ大人の男、なのではあるまいか。  その事について僕が覚悟して桂里奈に謝ると、彼女の方が申し訳なさそうな顔して、「祥くんは悪くない。好きになったのはわたしだから」と一生懸命だった。今ではそう思う、気持ちの余裕もある。でもなんだか悪いことをしてるみたいだった。もし僕が桂里奈を一番に好きだったんじゃないとしても、桂里奈は僕を許すのだろうか。それでもいいといわれたら僕は男として抱くべきだろうか。  僕はある日秀明さんにその事について相談してみた。 「難しいねぇ」  秀明さんはボールペンをいじりながら、そう肩肘をつく。 「僕は桂里奈が一番に好きじゃないんです。他に好きな人がいるんです」  例えばあなたとか。 「でも桂里奈は一番じゃなくても抱いてほしいと思ってるかもしれない。そしたら僕は男として、どういう態度に出るべきかいつも考えるんです」  秀明さんは唇でボールペンをノックするとニヤニヤ笑った。 「青春だね。」 「からかわないでください。僕は真剣なんです。」  秀明さんは「そりゃあ、まだ君らの年では早い問題なんじゃない?」とすげなく言った。 「そう…かもしれませんが、桂里奈の気持ちになるべく彼女が傷つかない形で答えてあげたいんです。」 「偽善だな」  僕は頭の中でメモする。こういうのは秀明さんにとって偽善のうちなのだ。 「いいか、君らの年ではそんなことまだ悩まなくていい。抱かなくていいんだ。もっと大人になってから、考えてあげなさい。そんな思い詰めた顔をして。」  そういって僕の頬をむに、と引っ張る。 「痛いれす」  触られたのが嬉しくてなすがままになってると、秀明さんは最後の一捻りを加えて手を離した。 「痛くしてんの。」  そうして事務仕事に戻る秀明さんが僕は大好きだった。  台風が直撃した週だった、秀明さんが三十八歳の誕生日を迎えたのは。僕は例に漏れずプレゼントをもって大雨大風の中、秀明さんに会いに行った。桂里奈はこの頃、あまりに僕が本気なせいか、一緒に付いてこなくなった。ただ気落ちしたようにがっかりした顔で「頑張ってね」というだけだ。  事務室にいくと秀明さんがいた。仮眠していた。端正な横顔と乳白色の陶器のような肌を見つめる。僕はそっと口付けた。柔らかな唇の感触。秀明さんの口の匂い。微かな吐息。秀明さんは「ん…」と言って目を覚ました。 「なんだ…また、来たのか。」  秀明さんは伸びをしながらそういうと、僕の頭を撫でた。 「髪濡れてんぞ。」  僕は黙って見つめる。 「タオルあったかな。」  ごそごそと引き出しを探る秀明さんのものぐさな反応に僕はただ黙る。  今ここであなたを襲ったっていいんですよ。  そう思う。体格的に僕は随分背が伸びた。今ならあなたを腕の中にいれてしまえる。でも黙った。そんなのは卑怯だ。もう少し甘えていたい。 「ああ、あったあった。ほら。」  僕の頭にタオルをかけると僕が動かないのを見て「乾かさないのか」と不思議そうに聞いた。僕は泣きそうだった。 「おかしなやつ。ほら、こっちこい」  僕は肩を引き寄せられるまま、秀明さんに頭を拭いてもらった。関係を崩してもこんなふうに接してもらえる自信が、僕には、ない。 「秀明さんは…ノンケですか」 「ばーか。勘違いするな。俺は両刀だ。」  両刀。その言葉をしっかり聞き逃さなかった。男もいけるのか。 「二十歳差は犯罪ですか。」  秀明さんの髪を拭く手が止まって、顔を覗き込まれる。 「範疇外だ。」  あとは自分で拭くこと、と事務机に秀明さんは戻ってしまう。生殺しだ。僕はずっと桂里奈にこんなことをしてきたのだろうか。これはその罰だろうか。  手の届くところに秀明さんの華奢な背がある。拒絶されるだろうか。子供は対象ではないのか。 「秀明さん俺、子供じゃないよ」  そういった僕の声はあまりに子供じみていた。秀明さんは聴こえなかったのか、事務仕事のペンを走らせ続けた。  黙っていると秀明さんは「あ、今日俺の誕生日だわ」と言った。 「あ、うん。プレゼント持ってきてて…」  そして事務机から振り返った秀明さんは、いたずらっぽく笑っていた。 「じゃあ、祥太の童貞頂いちゃおうかな。」  帰ってくると母親から「あんた昨日どこいたの。連絡も寄越さないで。」と言われた。 「ちょっと野暮用。」 「桂里奈ちゃんて子から電話あったわよ。ちゃんとお返しするように。」  女の子からの電話に含み笑いする母親に、俺は曖昧にうなずくと、スマホの電源をオンにした。部屋に上がる。 「もしもし俺だけど」  ガサガサの声で尋ねると桂里奈は「昨日帰らなかったの?どこ泊まったの?」と慌てたように聞いた。 「秀明さんちに泊まった。」  外は台風が去って晴天で暑いくらいだった。窓を開けて冊子を閉める。 「部屋の合鍵もらった。」  その瞬間、桂里奈は泣き崩れ落ちた。何度も俺は手をついて謝りながら、桂里奈が許してくれるまで、今度デートしたら桂里奈にあれ買おうこれしようと約束し続けた。 「秀明さんさ、」 「なんだよ。」 「元はノンケなの?」  ホモから女も平気になったのかノンケから男も平気になったのか、はたまた最初から男も女もいけるのか。俺が初めてじゃないことに、ちりちりとした嫉妬を催していた。  秀明さんは頭をかく。裸の胸を晒したまま、壁にもたれ掛かる。 「そんなこと知ってどうしたいの?」 「べぇつにぃ」  俺はふて腐れて布団に突っ伏した。 「聞きたい?俺の恋ばな」  俺は布団から顔をちょっとだけだして、秀明さんを見上げる。過去どんな人たちと寝てきたのだ。いまだに俺の男といえない。付き合おうなんて約束があった訳じゃないし、好きなんて一言も言ってない。ただ体の関係。 「中三のときかな。担任の教師と寝た。」  いきなり衝撃発言に俺がビックリしてると、秀明さんはフフッと笑って口許に手をやって煙草を吸う。 「高一のとき別れた。大分荒れたな。」  俺が思っていたより高難易度だよ、と思ったが口には出さない。子供だと思われたくない。 「次が家庭教師をしていた生徒。そういうのに弱いんだろうね。先生と生徒っていうのに。」  いきなり秀明さんの性癖に触れて、俺は生意気ぶって「じゃあビデオもそっち系のが多いの?」と聞いた。 「おー、当時は借りてくるものは教師と生徒ものが多かったなぁ。お前は?」  え、と言って慌てて「俺はサラリーマンものが多かったけど…」と言った。秀明さんに明確に男しか好きになれないとまだ言ってないが、そんなことにこだわるのも子供の証しな気がした。 「まー、背伸びしちゃってこの子はまぁ。」  そうしてぽんぽん、と頭を優しく叩かれる。俺は泣きそうな気持ちで黙り込んだ。  桂里奈が日増しに女らしくなっていく。一緒に町を歩いてると、よく男が振り返った。桂里奈は一別もくれずに俺の方を見ているので、大抵舌打ちしていく。 「祥太、それでね」  一生懸命桂里奈が話してるので、俺は思わず桂里奈の頭を優しくぽんぽん叩いた。  桂里奈が立ち止まって、俺はどうしたと顔を覗き込む。 「やめて、それ辛くなる。」  軽く睨むようにする桂里奈は「でも許す」とまた話し始める。俺だけが置いてかれるみたいだ。秀明さんに子供扱いをされる自分と、子供扱いされたときにきちんとやめてほしいといえる桂里奈と。どっちが大人かは明確だ。  土曜に家を空けることが多くなった俺に、父親は「あんまり無茶をしないように」とだけいった。母親はなにも言わなかった。年の離れた姉が夜遊びが激しかったせいで、親は慣れっこなのだ。こういうときは子供の自主性に任せるに限る、というのが親の基本方針だった。  親がここまで安心していると言うのも、俺が男なのもあると思うが、実は秀明さんがうちまで迎えに来たことがある。息子さんをお借りしますよ、と挨拶がてら来てくれたのだ。母親と父親は驚天動地で年上のお友だちができたのね、ぐらいにしか出迎えなかった。俺は恥ずかしいやら秀明さんはニヤニヤ笑うやらで、いたたまれなかった。その年上のお友だちとホモりあってるとも露知らず、両親はすっかり秀明さんを信頼している。 「たまには外でデートしたいなぁ…」  俺がそういうと秀明さんはぽすん、と事務机の上の封で俺の頭を叩いた。 「外では腕組と手つなぎとキス禁止。」 「う、うん。しない」  そういうとかっこよく秀明さんは笑った。 「俺をそう熱いまなざしで見るのも禁止。外ではね。」 「うぅ…」  俺は完全に秀明さんのいいおもちゃだった。秀明さんは俺に惚れてくれない。俺が惚れるばかりで。寝床でずるい、と泣いたこともあるが、苦笑されただけだった。  高望みしすぎなのだろうか。俺も割りきるべきだろうか。どうやったら…どうやったら秀明さんは、俺を好きになってくれるだろうか。  俺はうつむく。そんな可能性は限りなくゼロに近い。子犬のようにうなだれる俺に秀明さんは手を伸ばした。  俺が抗議の声をあげようとすると人差し指を口の前に持ってきて「しーっ」と言う。その一言で俺は黙り込んでしまう。  キスをされる。いきなり舌を入れられる。俺は抵抗しなかった。口の中をねぶりまわされたあと、チュッとリップノイズを立てて秀明さんは唇を離した。 「あとでね」
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