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「もって1年ほどになるでしょう。」
唐突な余命宣告だった。高校の健康診断で引っかかって、どうせ大丈夫だろとか何してんだよとか、友達と笑い合っていたのに。一応で来た病院で余命宣告。体調なんてどこも悪くないのに納得できるはずがなかった。しかし、怒りなんてものも湧いては来なかった。そうなんだな、と他人事のように冷静に感じていた。隣にいた母は肩を震わせながら声を我慢して泣いていた。僕はまだ泣いてないのにな、とか頭の隅でなんとなく思った。
「先生!鈴音は治るんでしょうかっ」
「珍しい病気ですので、日本での治療は難しいかと……国外でもまだ治療法がはっきりと定まっていませんので、何とも………」
その言葉を聞いて母は一層大粒の涙を零した。
それからだった、僕の生活が大きく変わったのは。友達には何も言えなかった。心配をかけたくないだとか、迷惑になるだとか、そんなものでは無かった。ただ自分が病気であることを信じていなかったのだ。だからなんでもないように過ごしていた。
それでもある日、高熱がでた。平熱が低い僕にしてみたら、有り得ないような体温だった。39.4℃、さすがに体温計が壊れているのかと疑った。その日から肩にちょっとずつ重荷が重なるように、体が重くなっていった。病院で検査しても専用の治療薬なんてない癖に、効き目があるのか無いのかわからないような薬を出された。入院はしたくなくて頑なに拒んだ。だって入院しても治らないなら意味がないから。
元気な時は全然平気なのに、具合が悪い時や薬の副作用が酷いとかで学校を休む日が増えた。
「鈴音、なんか隠してることない?」
「そうだよ、最近のりおちょっと変だよ」
"変"、僕って変だったのかな。自分ではいつも通りのつもりだったのに。
「ははっ……変って何が?別になんでもないよ」
そう返すと一人が机を叩きながら立ち上がって怒鳴った。
「こんな青い顔してる奴がなんでもない訳ないだろ!なんで言ってくれないんだ……」
やめろ。そんな顔でこっちを見るな。心配そうにするな。なんでお前が泣きそうなんだ。泣きたいのはこっちだ。お願いだからやめてくれ。
「うるさいな、僕がなんでもないって言ってるんだからそれでいいじゃん!」
もう見たくなかった。可哀想な目で見られることに耐えられなくなった。思わず教室を抜け出して走った。また肩にかかる重荷が増えた気がした。
気がついたら、家への帰り道にある公園に居た。ベンチの前でうずくまって泣いた。僕にどうしろって言うんだ。友達に可哀想だと同情されたくない。具合が悪くてもいつも通りに話をして、笑いあっていれば、全部忘れられるから。普通にしたいのに、出来ないことが増えて、手伝ってもらわなきゃ何も出来なくなって、それに申し訳ないとかありがたいとか色々思う事は沢山ある。最初はみんな心配そうにするけど、結局最後は面倒くさくなっていって、僕が困っていても見て見ないふりをするって知ってるんだ。それに気づいた僕がどんな気持ちになるかわからないだろ。僕だって自分のことは自分でやりたいよ。でも出来ないからこれ頼んでもいい?とかたくさんお願いをして、謝って、感謝して。申し訳なさと不安で頼み事をするのも億劫になった。皆が笑顔で引き受けてくれると、驚くほど安心した。まだ大丈夫で良かったと。そんな風に気を遣うのも疲れた。きっと身体的に疲れているのは僕じゃ無くて皆の方なのに、僕だけじゃないと分かっていても僕の方が辛いみたいに振る舞うのはおかしいよね。本当に僕はダメな奴だね。ただ悔しかったんだ。こんな事も出来ないのかと自分が惨めだったんだ。
いつまでそうしていたか分からない。
耳触りが良い低くて喉が震えるような声が耳に届いた。
「あんた何してんの?ベンチ、座ったら?」
僕は声がする方に顔を向ける。視線は1人に留まった。日に当たって煌めく銀髪に骨ばった輪郭。丁寧に散りばめられた顔のパーツに、まだ少し幼さが残るふっくらした頬。特に宝石のような赤い瞳が印象的だった。一見すると厳しく恐ろしい顔付きにも見えるが、僕には神が創った造形がおぞましい程に美しく映った。
僕が何も答えないことを不思議に思ったのか、彼は僕の目の前にしゃがんで目を合わせてきた。近くで見ると整った顔がよく見える。耳には黒いピアスをしていて、シンプルなそれがよく似合っていた。
「座んねーの?」
「あ、座る」
「おう」
なんかよくわからないけど、流れで一緒にベンチに座った。でも会話はしなかった。というか気まづくてそれどころじゃない。絶対泣いてるところを見られたはずだ。
「俺さ、疲れた時よくここ来るんだよ。」
「へ?」
「ここって滑り台も無ければブランコもないだろ?そんなとこに子供が来るわけないし人が少ないから。」
「一人になれるだろ。」
そういった彼は疲れたと言うより、一人が寂しいというような顔をしていた。それは彼が話した事と矛盾していたから、僕の気のせいだと頭の中から取り消した。
「一人じゃないよ、今日は」
口をついて出たとはこういうことか。特に話す気もなかった言葉が勝手に出た。すると強面の彼が破顔して大きな声で笑うもんだから、何がそんなに面白いのかと軽く睨んでしまう。
「ああ、そうだな。ひとりじゃないことがこんなに心地いいなんて知らなかった」
「そうですか、僕は心地よくないけど。」
「みたいだな。」
そして彼はまた笑った。よく笑う人だな。僕が訝しげに見つめていることに気がついたのか、彼はこう言った。
「俺の顔みてビビんない奴、お前が初めて。俺に言い返してくる奴もお前が初めて。初対面で俺にタメ口きいてくるのもお前が初めて。」
「貴方の顔のどこにビビるとこがあるんですか」
そりゃそんな美しい顔なら皆ビビるだろうよ。
僕は少し反抗したくて敬語で尋ねると、彼は気持ち悪そうにこちらを見た。
「目だよ。この目。血の色みたいってよく言われる。これが気色悪いんだとよ。」
「宝石みたいに綺麗なのに?」
僕は本当に思ったことを言うと彼は驚いた顔をして、また笑った。
「だからお前は面白い。」
僕達が出会った日から、よくこの公園で話をするようになった。それは別に約束も何もしてないけど、僕が公園に行くといつも彼は居た。年上に見えた彼は同い年らしく、高槻 愁と名乗った。家が金持ちで高校卒業後は全国でも有名な国立大に入学するらしい。裏口とか怪しいものではなくて、幼少期から厳しい教育をされてきたので単純に頭が良かった。この見た目でピアノも弾けて、絵も歌もスポーツも得意だというのだから、神は何物も彼に与えすぎなように思う。あの日、彼は僕に泣いていた理由を聞かなかった。それが僕にとっては楽な気持ちにさせた。僕は自分のことを何も知らない人と普通の会話をすることを特別に感じていた。堅そうな風貌の彼が、話していくうちに自身のことを打ち明けてくれるのが嬉しくて、時間も忘れて話し込んでいたと思う。
しかし、時間を忘れても、病気を患っていることは忘れられなかった。いや、忘れさせてもらえなかった、の方が正しい。体がだるくて、公園にも行けない日が続いた。立ち上がると目眩がして、立っていられない。少しでも動くと、頭痛とそれからくる視神経の痛みで目も開けていられなかった。不整脈のせいで呼吸のタイミングが合わなくて、乾いた咳が何度も出た。そうするとまた頭の痛みが増して、悪循環。こんなにも辛くてどうしようも無くてひたすら寝るしかないのに、これは生きているって言えるのか疑問だった。ただ今は考えることも目から何かの情報を入れて処理することも出来ない。それが逆に救いだった。
どんなに辛い症状だったとしても、何故か突然治ったりするもので昨日までのあれは何だったのかと思うことも多い。僕の病気は随分気まぐれだった。
そして今日は公園に行こうと決めたある日の朝、母が唐突に言った言葉に体が固まった。
「鈴音、アメリカに行きましょう。」
アメリカに貴方の病気を治せる可能性がある医師が居るのだと。僕は複雑な気持ちになった。行かなければ治る可能性は無くて、行けば治るかもしれない。正確なものかわからないけど余命というものはそれほど残されていなくて、今はそれなりの生活ができていて、十分じゃないけど、必要条件くらいは満たしているんじゃないかと思う。もう十分生きたかなという気持ちともう終わりなのかとちょっと寂しいような気持ち。親や友達に申し訳ない気持ちと今までありがとうという感謝の気持ち。変な達成感と大きな喪失感。公園に行くことがいつしか楽しみになって、あの人に会えるのが特別じゃないように感じるようになって、アメリカに行くにしても行かないにしても、もう会えなくなるのかと思うと視界がぼやけた。せめて最後にお別れの挨拶くらいはしたいと思った。そのくらいの思い入れを持ってしまっていたことに今更ながら気がついて、傷ついた。
今日で会えるのは最後になるかもしれない。さっき泣いたせいで、目がちょっと腫れてしまっている。最後くらい1番いい顔で会いたかったと少し悔やむ。公園に着くといつも通り彼はいた。彼は僕が来るとすぐに気づいて、唇で柔らかな弧を描きながら、軽く手を挙げた。ほんの少しの動作でも絵になっていて、心がドキドキしてしまう自分がいることを何故か切なく感じた。
「よお、今日は遅かったな。」
「あ、うん。ちょっとね。」
「お前、……」
「え…な、に」
座っていた彼が唐突に立ち上がって、僕の方にズンズンと向かってきた。彼のスラリとした長い足のお陰か、二人の間のちょっとした距離はすぐに詰められた。身長の高い彼が目の前に立つと威圧感を感じて、いつもよりちょっと怖い。自然と見上げる形になると彼の大きな手が僕の頬を包み、長い指が目元をなぞった。
「泣いた?」
「へ?」
ああ、確かにさっき泣いたけど、そんな気になるほど腫れてるのかな。一応冷やしてきたんだけど。
「ここ赤くなってる。なんで泣いた?」
「あ、の……」
今日は僕の病気のことを伝えて、今までの感謝とさよならを言いたかったのに。そんな風に心配そうに、大切そうに扱われると僕の緩い涙腺はすぐに崩壊する。
「え、ちょ、なんで泣く」
「うぅ、ごめ、んっ……」
「擦るな。また赤くなる。大丈夫だから落ち着け」
大きな手に頭を撫でられると、温かさと優しさが伝わってきて、また泣きそうになったけど、「大丈夫だ」と言われて、彼が言うなら大丈夫だと安心してしまった。そして僕の涙が止まった頃に彼は優しく尋ねた。
「それで何があった?ゆっくり、言ってみ」
「うん、…あの、実は、………もうここには来れないかもしれないんだ」
彼は大きく目を見開いて、優しい目が真剣な目に変わり、真偽を確かめるような鋭い目になった。それでも僕の言葉を聞き逃さないように、静かに聞いてくれた。僕は病気のことをやっと打ち明けた。
「そうか。治ったら帰ってくんの」
「もし、治ったら、ね。」
日本じゃ治療法も薬もない病気がアメリカなら治ります、なんて簡単なことではない。確かなことは何も言えない。ただ奇跡が起こることを願うだけだ。少し前までもう十分生きたとか考えていたのに、今はまだ生きたいと思っているってだけで、僕の人生は凄く良い方に変わったと実感する。これも全部彼のおかげだ。感謝してもしきれない。
「俺待ってるから、ここで。」
公園で会うだけの関係。嘘でも凄く嬉しかった。明日死ぬんだと思って、これまで色んなものをちょっとずつ捨ててきた。そうして空になりつつあった僕の心を温かいものでうめてくれたのは、間違いなく彼だった。ただ実はそれさえも怖かったのだ。彼と仲良くなればなるほど離れがたくなるのが不安だった。もう僕達は会えなくなるかもしれなくて、 君が悲しんでしまったらどうしよう、なんて差し出がましい考えも浮かんだ。でも君はいつだって希望を持ち続けていた。そんな彼が僕にとっての希望になった。
僕は彼への返事がなかなかに出来ないでいた。曖昧に笑いながら視線を上げると、意志の強そうな真っ赤な瞳と目が合う。心の内を見透かされているようで、心臓がバグバクした。彼の目が逸らさず僕をみるので、はぐらかすなと言われているような気がした。唇が勝手に震えて、口も僅かに開いたり閉じたりしたけれど、声は出なかった。
彼がフッと笑った声が聞こえた。僕は呆れられてしまったのかと憂慮したが、彼が余りにも穏やかな表情を浮かべるものだから、息をするのも忘れて見入ってしまった。そして彼は右手の小指を出して"約束"とひと言だけ言った。今度は躊躇わずに右手を差し出して指を絡めた。
「…うんっ、約束」
これは17歳の夏のことであった。
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