限りある命

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連れてこられたのは愁の家で、数十階建てかのオートロック式の立派なマンションだった。そういえば大学から一人暮らしを始めると言っていたっけ。大学生の住むようなアパートとは次元が違うほどの壮大さから、彼が普通では無いと思い知る。 彼は僕の腕を引っ張り、玄関のドアを開け、進んで行った。僕は()わしなく靴を脱いで部屋に上がらせられた。無機質で物の少ない部屋である。そして、気づいたら背中からベッドに投げられていた。 「うぅ……、っ…いた」 咄嗟に起き上がろうとすると、彼が鎖骨辺りを押さえつけながら、腰に乗り上げてきた。もう身動きが取れない。 「なんで……」 ベッドの軋む音以外しない部屋に静かに声が響いた。 「?な、なに?」 彼が言った「なんで」の意味がわからなかった。 「俺とお前、約束しただろ。入学式の日お前を見つけて、治ったんだとわかってからはずっと待ってた。治ったらあの場所に帰ってくるってお前が言ったんだろ!」 「あ、え…」 確かに2年前のあの日、僕は彼とそのような約束をした。それは覚えていた。でもまさか愁が覚えているとは思わなかった。 これは僕達が例の約束をした後の話だけれど、真緒や怜に愁の事を話したのだ。そうすると返ってきたのは、そいつはここら辺では有名な不良集団の頭だと言う。なんでも、その不良集団は弱者を虐めるもの達を徹底的に打ちのめし、困っている人たちには手を差し伸べるのらしい。それって不良じゃなくない?って聞いたら、見た目は皆完全に不良だし、他のグループと喧嘩することも普通にあるのだと言っていた。しかし、総長のカリスマ性で集団は統率され、弱者は救うという信念を持つ人格者であり、喧嘩の強さでは右に出る者はいない、という所からこの集団は市民達からも評判が悪くない、と言うのだ。 僕と一緒に居た愁は不良という感じはしなかった。容姿は美しい彫刻のようであったし、口調こそヤンチャさが垣間見えていたが、心根(こころね)は思いやりに満ちていた。 大学で再び彼を見つけた時も、その性格の良さからか、彼の周りには常に人が絶えなかった。彼と同じような美しくかっこいい人たちと共に笑いあっている姿は周囲の視線と羨望を集めた。僕もそういう場面を見て思ってしまったのだ。彼は優しいから僕の病気が治ったらまたあの公園で会おうと言ってくれたのではないかと。彼は、もう生きるのが辛かった僕の考え方を変えてくれた。もう大切なものも思い出も出来ない筈だった僕を変えてくれた。沢山のものを与えてくれた。それで十分ではないか。これ以上彼に求めるのは贅沢すぎるのではないか。それは余りにも僭越な行為なのだと。希望を持たせておいて、突き落とすなら、いっそ希望なんて要らない。期待なんてさせないでほしかった。僕に希望を与えてくれた彼を勝手に解釈し、彼に迷惑をかけない為に離れようと決めたのだった。 「まだ、覚えてたんだ…」 あの見透かされていると錯覚する赤い目を見ることが出来なくて、顔を背けて言った。 「は?はは……そうか、覚えていたのは俺だけか」 静まり返った部屋に乾いた笑いが響く。彼の手が僕の顎を掴んで、無理やり正面を向かせる。目が合ったのはあの赤い目。やっぱり今日は一段と鋭いような気がする。 「思い出せ」 命令のように高圧的で、強制的に思い出せと言うような声色だった。 「んっ、ん?!」 僕の唇と彼のがぴったり合わさっている。彼の舌が唇を撫で、中に入ろうとする。状況は分かっても理解が出来なかった。彼は僕があの事を忘れていると思っているのだろうか。ちがうよ。覚えているよ。覚えているけど、そもそもあの事を無かったことにしたんだ。 「ちょっ、ん"ッ?!…ぅあ」 ちょっと待ってと言おうとしたけど、声にもならなかった。舌が口腔に入ってきて歯列をなぞる。驚いて舌を縮めると絡め取られてぢゅるっと吸われた。首の後ろを大きな手で支えられて顔を動かすことも出来ないで顎を持ち上げられ、唾液を注がれる。飲み込みきれないものが口の端から溢れた。こんな濃厚なキス自体初めてなのに息継ぎなんて上手くできるはずがなかった。上顎を擦られると、恥ずかしいほど大きく腰がひくついて上擦った声が出た。本当は覚えているんだと言おうとしても口を開く度、塞がれてはくぐもった嬌声しか出なかった。抵抗をしようとして彼の胸に置いた手は、既に力が抜けていて軽くシャツを掴むだけだった。まるで縋り付くみたいに。 「んッ、んぁ…は、ぁっ、や……まって」 「…………」 やっと止まってくれた彼の目線は冷たかった。僕は起き上がって、酸素を取り込む為にゼーゼーと必死に息を吸っていた。 「はっ、はぁ…………覚えてるよ。」 「……は?………覚えてんならなんで来なかった」 「それは……迷惑になるかと思って、」 貴方みたいな完璧な人の隣には僕は相応しくない。どこにでも居る黒い髪に黒い瞳、高くも低くもない身長、特に主張もない顔に病弱な体。ほんとに何の取り柄もなくて嫌になる。知らず知らずの内にまた俯いてしまっていた。 「迷惑ってなに。俺が1回でもそう言ったことあんの。」 「…………」 ないよ。君がそんなこと言うはずがない。だって君は優しいから。そう、誰にでも分け隔てなく優しさを振りまくから、だから困るんだ。心配してくれるのも、待っていてくれたことも、もしかして僕は特別なのかと思わせられる。僕だけじゃないと、分かっているのに。今この言葉だけは僕に向けられているから。勘違いしそうになる。 「ねえだろうが。おい。」 こっちをむけと、また顔を上げさせられた。赤い瞳はいつもより毒々しくて神秘的だった。 「僕なんかに貴方の隣は似合わないから、気を遣って貰うのも申し訳ないし、距離を置いた方がいいかなって。」 「お前なんかってなんなわけ?距離を置いた方がいいってのもそんな理由じゃ納得できねえ。お前は何を怖がってんの?」 大雑把そうに見えて繊細で、感の鋭い彼は、僕の痛い所を突いた。 「僕は、容姿も平凡だし、貴方の隣に居ると不釣り合いだと言われると思う。それで君に迷惑とか掛かるなら、そうなる前に、」 「なあ。つまりそれって俺と離れるのが怖いって事だろ。」 "俺を怒らせるのとそれ、どっちが怖い?" 深い夜を抱える赤い瞳に呑み込まれた。頭の中で何度も反芻される。条件反射で肩がビクッと動いた。心臓の拍動が速くなって、喉は引き攣る。僕は心底震えて恐れていた。こんなふうに彼に圧を掛けられるのは初めてだった。 「っ…………」 「答えろ、鈴音(りお)。」 どっちも怖いに決まってるだろ。人に怒られたことなんてあんまり無いし。そもそも愁と僕の関係って友達と呼ぶのも危うい関係で、公園でよく話す人みたいな知り合い程度。でも僕にとってはすごく凄く大きな存在。そんな人が欠けたら寂しくなるし、虚しくなる。連絡先とか縋り付く術は持っていない。離れようと思えば今すぐにでも関係を断てる。その状況が僕の言葉一つでいつでも起こり得るというのが怖くないはずないだろ。怖いよ。 「分からないなら教えてやろうか。お前は俺に迷惑かかるとか言って、考えてるのは自分の保身だ。お前の背景はよく知ってるから、失うものが多かったことも、それに深く傷ついてきたことも知ってる。それを話してくれたのはお前で、それを受け止めてきたのは俺だ。そして、お前は今までの経験から勝手に離れるという判断をしている。また同じように傷つくのは嫌だから。そこに本当はどうしたいのかと、俺への感情は含まれていない。随分自分勝手な野郎だな。俺は絶対に許さない。」 その通りだ。僕は自分のことしか考えてない。貴方が迷惑被るのだと理由をつけて、本当は自分が傷つきたくないだけだった。貴方との関係性が変わることを恐れて自分の気持ちに蓋をするように癖づいていた。 図星すぎて目に溜まっていた涙は今にも溢れそうだ。ふと彼の手が僕の手を掴んで、僕の心臓の前に押し付ける。そして彼は嘆願するようにこう言った。 「俺は許さないよ。自分の心を無視するのは。」 もう涙を塞き止める堤防は決壊していた。子供みたいに泣きじゃくっている僕を彼が抱きしめる。零れる涙は冷たかったけれど、彼の熱と優しさが温かかった。 幸せってなんだろう。幸せはほとんど相対的なものだと思う。僕が罹患(りかん)したことは間違いなく不幸だったと思う。でもその状況下でも、虐待を受ける人達やスラムで生活している人達に比べたら絶対に幸せだと思っていた。辛い思いをしている人と比べたら、僕の方が幸せなのは確実だった。そうやって比べることで僕は自分を救っていたのかも知れない。では僕自身はどうか。相対的な幸せではなくて、僕の絶対的な幸せとは何か。例えば寝ること、例えば食べることは幸せだと思うけれど、それ以外の幸せが何かと聞かれればなんだろうと頭を悩ませてしまう。いつも通りの、変わらない日常を送れることが幸せなのだと誰かは説いたけれど、それで満足する人は少ないことも周知の事実である。 太陽の光に目を細めること。大地を踏みしめること。柔らかい風に触れること。雨の匂いを嗅ぐこと。甘い香の花に止まる蝶を眺めること。早朝には小鳥の囀りが聞こえること。 これらは特別なことか。いや、普遍である。では、これは幸せか。ああ、これは幸せである。けれど些細な幸福に気づくのは、生活と心に余裕のある人だけだ。 「鈴音、こっち来い」 「愁?なに、わっ…くるしいよ」 僕の好きな声で僕の名前を呼んで、僕の好きな手が僕を抱き締める。顔を上げると僕の好きな瞳と目が合って優しい笑顔で見つめ返してくれる。"永遠"なんて信じない僕だけど、『俺が死ぬまで俺はお前を離せない』という言葉に全く敵わないでとことんやられてしまったのだ。僕の不安さえも包み込む貴方の温かさに安心してしまう。 「あのさ、1個言いたいことあった。」 「ん?なに?」 「お前は自分のこと平凡って言ってたけど全然違う。」 「え?」 急に何を言い出すかと目を丸くして聞き入ると、彼は意地の悪そうな顔で口の端だけ持ち上げた。 「このキメ細かい雪みたいに白い肌は滑らかで触り心地が良い。真っ黒な髪は傷み知らずで艶があってサラサラだし、長めの前髪に隠れた目は大きくてくりくりしてる。涙袋もぷっくりしてて、まつ毛も長い。唇は柔らかくて血色がいい。小さいけど。それも可愛い。」 「わ、わかった!もう十分だよッ」 「照れると耳まですぐ赤くなるのも可愛い」 「~〜〜~っ!」 「おい、殴るな。照れすぎ」 僕の耳を触りながら、いたずらに笑う彼は屈託が無くて、本気で怒ることも出来ずに結局許してしまう。彼とだったら些細なことが大きな幸せになるのを実感する。それが永遠では無いことを憂いては、彼が永遠を誓い抱き締めてくれる。そうして僕はやっと決心して、彼と僕自身を信じ続けることにした。彼にそう伝えると、やっとかと呆れながらも、今までで一番いい笑顔を見せてくれたことは、人生でも最上位の幸せとなった。 限りある命。それは健康な人も病を抱えている人も同じである。長いか短いかの違いかもしれない。でも、いつかは果てる命をしっかりと見つめているからこそ、幸せが理解できるのかもしれない。同じ運命を共にする人と感情を分かち合うから、悩みが消えていくのかもしれない。
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