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第一部〜青い空に雷は落ちない〜
⑴最愛の相手
凄まじい地響きとともに、滝のような雨が僕の視界を掠める。ほぼ同時に、目の前で空が点滅した。落雷はここから近い。
まだ小学生だった僕でも、このまま傘もささずに帰るのは危険だと悟った。
通学路の途中、商店街の入り口にあるその店の軒先に飛び込むと、思ったより自分が濡れていることに気づく。学校から出た頃は雨もそこまでひどくなかったのに、たった数分の間にこの有様だ。夏の始まりのこの季節の外出には、折り畳み傘が欠かせないはずなのに、僕は全くの無防備だった。そもそも小学校から家がそんなに遠くなかったし、もし雨が降っても走って帰れるだろう、という考えが浅はかだったのか。
もう一度どこかに雷が落ちて、寒気と共に身震いした、そのときだった。
「雷は、危ないねぇ」
背後から声がした。店の扉が開き、そこから誰かが顔を覗かせている気配がする。僕の母親を一回り歳を取らせたくらいの中年女性のような声だ。振り返ると、まさに「美魔女」というのが相応しい、バブル期からそのまま抜け出してきたような派手な女がいた。神は明るい茶色でややウェーブがかかっており、服装は全身が黒っぽい地味なものであるにも関わらず、スパンコールが眩しい。シワの深い顔に塗られた化粧も濃かったが、その表情は優しそうだ。
「うちで雨宿りするかい?」
僕は言われるがまま頷くと、店の中に入った。
その店には、客が一人もいなかった。こんな天気の日に客が訪れるわけがないとは思っていたが、あまりの閑散とした様子に、幼い僕でもこの店の経営に不安を感じた。店は明るかったが、その設備もだいぶ古そうだ。この店は確か僕が生まれた時からずっとここにある。でも中に足を踏み入れたのは、この日が初めてだった。
「とりあえず、ここ座って。今お茶入れるから」
僕は人見知りだったので───今も人懐っこいわけではないが、終始落ち着かず、なかなか座ろうとしなかった記憶がある。そんな僕の姿を、店の奥から何やら持ってきた美魔女は笑って見ていた。
「まあ、落ち着かない場所だとは思うけどねぇ」
僕は椅子に浅く腰掛ける。たしかに落ち着かない場所ではある。
ただ、座ったその瞬間。初めて君の姿が目に止まった。
店の奥。僕が座ったことで、視線の高さが同じになる。
目が合った。
そのとき体の中で世界が反転したみたいな衝撃が走り、そこから君を意識せずにいることができなくなってしまった。
ああ、一目惚れってこれか……。
小学生ながらに理解した。
僕はそんな内心を誤魔化すように、出されたお茶をすすった。君も僕から視線を外す。「熱っ」とつぶやいた僕を見て、美魔女は笑う。
「ごめんね、やっぱり熱すぎたねぇ。今日寒いもんだから」
僕はしばらくしてその熱さに慣れ、芯から暖まっていく体でほっと息を吐く。
外はさっきから変わらず雨が降り続いているようだが、雷雲は通り過ぎていったらしく、少し明るくなった気がした。
もう少ししたら、ここを出なければならないのか。
それは君の姿を見られなくなることを意味する。
そう考えると、雨なんか止まなくていいのに、と思った。
雷もずっと鳴り続けていればいい。でもさっきの君は、雷に少し怯えているようにも見えた。君のためなら、雷は止むべきだな───。
だから少しでも長い時間、その姿を目に映していよう。
そう思って僕はテーブルに頬杖をついて、美魔女に気づかれない程度に君を盗み見る。
でも、きっと美魔女はすぐに気づいたのだろう。湯呑みのお茶がすっかりなくなり、雨も弱まってきたとき、美魔女は僕に、「傘を貸す」と言った。
「またいつか、返してくれればいいから」
淡い萌黄色の傘だった。
それを受け取り、僕は入り口まで歩いていく。最後にもう一度振り返ったときにはもう、君の姿は見えなかった。
「じゃあ、気をつけてねぇ」
僕の頭の上から扉を押し開けて、美魔女が送り出す。僕は振り返る。今度は美魔女にお礼を言うためだったが。
「ありがとうございました」
「どういたしまして。それじゃあ」
目の前で扉は閉まった。
僕は未練を振り切るように傘をさすと、雨音を聞きながら家まで歩き始めた。
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