1. ヒロインになれなかった

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「待ってください! どうして、ここに……っ」 車を降りてから、もう何度このセリフを口にしただろう。 花束を左腕に抱え、右手の指を私の指に絡ませて、彼は無言で歩き続ける。 カツンカツンと磨きぬかれた高級ホテルの床に革靴の音が響き渡る。 「悪いようにはしないから、イイコにしてろ」 彼が、絡ませた手を持ち上げて指先に小さなキスを落とす。 温かな感触に鼓動がひとつ跳ねた。 ぶつけたい質問の数々は、長めの前髪の隙間からのぞく妖艶な眼差しに圧倒されて喉の奥で止まってしまう。  ――ねえ、あなたは誰? 知らない人についていってはダメと、幼い頃に両親から受けた注意を思い出す。 強い視線に耐えかねて、周囲をそっと見回す。 五月半ばの金曜日、午後七時半過ぎの高級ホテルのロビーには大勢の人々が行き交っている。 切れ長の二重の目に形の整った凛々しい眉、スッと通った鼻梁と少し厚めの唇といった、完璧なパーツが収まる容貌は、すれ違う人の視線を釘づけにしていた。 皆、仕立ての良いスーツにハイブランドの腕時計を身に着けた長身の男性が花束を抱えている様を、興味深そうに眺めている。 一方、手を引かれる私は、顎下までの真っすぐな焦げ茶色の髪に母親譲りの垂れ目がちの二重の目をもつ、平凡で地味な一般市民だ。 二十八年の人生で一番の注目を浴び、居心地の悪さから下を向く。 すると、転んで派手に泥が飛び散った真っ白なスカートと無残に破れたストッキングに包まれた足が見えた。 「やはりどこか痛めたか?」 頭上からの問いかけに急いで顔を上げ、首を横に振る。 「嘘だったら……キスするぞ?」 グイッと絡ませた指ごと体を引き寄せられ、バランスを崩し、彼の胸に飛び込んでしまう。 至近距離に迫る、整いすぎた面差しに動揺を隠せない。 「う、噓じゃないです!」 口角を上げて、慌てる私を見つめる彼に、ひとりの男性が声をかけた。
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