4160人が本棚に入れています
本棚に追加
/190ページ
……冷静になりなさい。このまま、ついて行く気?
決心が揺らぎ歩みが遅くなった私に気づいたのか、やってきたエレベーターに強引に押し込まれる。
「願いを叶えると言っただろ?」
ふたりきりの籠の中で、私を壊れ物のように優しく抱き込む。
鼻孔をくすぐるシトラスの香りが心地よくて、ふいに泣きたくなった。
「俺にはお前が必要だし、こんな状態では帰せない。このまま甘やかされていろ」
傲慢な甘い命令に、鼓動がどんどん速くなっていく。
車中で話した、私の情けない失恋を気にかけてくれているのだとわかった。
授かり婚と寿退職を満面の笑みで告げる後輩の姿が、ギュッと閉じた瞼の裏に浮かぶ。
「なぜ優しくするの? 泥水がかかったのは事故だし、私たちは見知らぬ者同士でしょう?」
「運転していたのは俺だ。逢花は転んで、ブーケがつぶれた」
淡々と状況説明をしながら、片手を耳の後ろに差し込んでくる。
ゆっくりと髪を梳かれたうえ、名前を呼ばれ背筋に甘いしびれがはしった。
「か、代わりに大きな花束をいただいたわ」
「俺は今夜、ひとりでいたくなかった。最悪な気分のふたりが出会うなんて縁があると思わないか? 俺は逢花がほしい」
真っすぐな物言いにコトンと心が動き、なけなしの理性がどんどん叩き壊されていく。
私とは違う世界に生きているこの人と、今後会う可能性は低い。
こんなに完璧な男性に、ひと時とはいえ求められるなんて、代り映えしない毎日を繰り返す私には二度と起こらない魔法だ。
……せめて今夜くらいは、魔法にかかりたい。
最初のコメントを投稿しよう!