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その手を離さないで
ベルギウス家に戻って残った仕事をし、食事を取った後はフランクリンのケアがルシールの日課となっている。今日は特に負担のかかる歩行訓練を多く行っていたせいか足は張っていた。香りの良い香油を付けてうつ伏せになったフランクリンの足をマッサージしながら、ルシールは日中の疑問が頭から離れなかった。
「どうしたの?」
「え?」
「なんだか、考え事をしているみたいだから」
こちらへ振り向いたフランクリンの問いかけに、ルシールは戸惑った。
だがジョシュアの言葉が結局早い解決法だったから、問いかけた。
「何故、私なのでしょうか?」
「え?」
「……もう、無理な訓練はおやめ下さい。こんなに足が張って。それに所々擦りむいています。貴方様の足では立つ事すらも困難なのです。杖を突いて歩けるだけで十分目覚ましい回復なのですよ」
冷静にと思いながらも口が急く。止めてもらいたいというのは何処かにある。怪我をしたら。それに……その努力が万が一ルシールの為であったなら……そんな無駄な事、やめてもらいたかった。
だがフランクリンは少しムッとしてそっぽを向く。子供が腹を立ててプイっとしたみたいに。
「嫌だ」
「あの」
「止めないよ」
「……何故、ですか?」
「君の事が好きだから」
何の気もない様子で伝えられる「好き」に、いつからかこの胸は音を立てるようになった。大切にしてくれている。そう感じるとき胸がじわりと温かく痛むようになった。
そんな価値などないと思う度、血まで冷えてイルのではと思えるくらい体が冷たく感じられた。
「……そのような価値は、私には」
「どうして?」
「身分が」
「気にしないし、それでとやかく言う輩は相手にしない。しつこいなら追い払う。そのくらい、今の僕ならできるよ」
「私は! ……親も知らない孤児で、奴隷のような生活を送り、多くの人を殺めて」
「それも知っている。でもそれは君が望んだ事ではない。誰だって生きるか死ぬかの選択を迫られる毎日では善悪など紙切れよりも薄くなる。君が置かれた状況は、そういうものだろ?」
「……清い体でもありません」
恥じ入るように小さく伝えた声は震えた。当然顔などまともに見られなかった。
叶うなら子供の頃に戻ってやり直したい。弱くても、殺されてしまっても人の道から外れる生き方なんて選ぶべきじゃないと伝えたい。道を踏み外せば幸せなどないのだ。
いっそ、一生泥沼の中であればこんな思いを知らないままだった。まっとうになったことで己の罪や穢れを知ってしまった。
不意に手が伸びてきた。いつの間にか起き上がったフランクリンがそっと頬に触れている。それが温かくて、優しく思えてならない。優しさが苦しい。
「それも、知っているよ」
「!」
その言葉に弾かれたように顔を上げた。少し悲しげに微笑む人の手が耳に触れ、頭を撫でる。『いい子』と、褒めるように。
「ごめんね、知られたくなかったよね」
「どう、して……?」
「君の事が好きだからもらい受けたいとジョシュア様に直談判した時に教えてもらった。父様も同席していたから知っている。あっ、でも知っているのはこの三人だけ! リッツとかは知らないから安心して」
「知って、いたのに何故私を?」
涙声になりそうな声は震えを隠しきれない。恥ではなく恐れだった。知られたらもうここにいられないのではないかと思っていた。何より、この人の見る目が変わってしまったら苦しかった。
でも、知っていてずっと変わらなかった。でも、そんなに思ってもらえる事など覚えがない。こんな無愛想な女の何処を、この人はこんなにも好きになってくれたのだろう。
優しく包むように触れる手は思ったよりも大きくて筋があって、男の人なんだと思える。真っ直ぐ柔らかく見つめる目はとても温かくて優しい。
「僕の足の理由は、知ってるよね?」
「え? はい……」
「……本当はね、怖くてこの国に戻りたくなかった。父様にゴミを見るような目で見られたら……そう思うと心臓が痛くて、いっそ誰か殺して欲しいと願っていたんだ」
「そんな! そのような事は」
「今ならない! って言えるけれど。当時はこれが本当。僕がずっと魘されて酷かったの、見てたでしょ?」
「はい」
それは、ルシールがここにきた当初の事だ。
フランクリンは精神的にもとても不安定な時期が数ヶ月あった。不眠、食欲不振、錯乱は顕著だった。日中はそうしたものを押し込んでいる様子だったが、眠った後がこうだったのだ。
今ではまったく見られなくなったこれらの症状だが、もう年単位で過去の話なのに彼は覚えているようだ。
「保身の為に大事な弟を売った外道。更に相手の真意や格を見誤った愚策。到底商人とは思えない失態の数々。なのに罪はなく、父も弟も許してくれた。僕は、彼らの優しさに生かされた。けれど、本当は怖かった。いつかこの罪を誰かが取り立てにきたら。言い逃れなんてできないんだって」
そういうフランクリンの手は僅かに震えている。いつの間にか膝の上に置かれ握りしめている手に、ルシールは手を重ねた。するとゆっくりと、手の震えは消えていった。
「温かい」
「?」
「これ、なんだ」
「え?」
「毎日悪夢を見た。罪を突きつけられて絞首刑となる夢。リッツがあのまま囚われて殺されてしまう夢。父様に見下され、踏みつけられて他国に売られ奴隷となる夢。最悪が、僕が罪から逃れたいが為に二人を殺してしまう夢」
「そんな!」
「飛び起きて目眩がして、気持ち悪くて吐き気がして。苦しくてもこれが僕の罪なんだと思って耐えていた。でも、君だけはこうして隣にいて、触れて、大丈夫と言ってくれた」
「あ……」
それは、あまりにこの人が可哀想だったから。
周囲の人の話を聞いた。沢山の重圧に負けてしまっていた事。努力が空回りしている事。それらに、耐えきれなくなっていたんだ。
なのにまだ耐えて震えている人が可哀想で側にいた。声を掛けて触れるくらいしか出来なかったけれど、何もないよりはいいだろうと。
重ねていた手に、大きな手が重なった。フランクリンは申し訳なく笑っていた。
「弱い僕を、君は大丈夫と寄り添ってくれる。みっともなくてどうしようもない僕にも君がいてくれる。そう思ったら、頑張れる気がしたんだ。底辺まで落ちたんだから、這い上がればいいだけだって。君がいてくれたら、僕は頑張れるって思ったんだ」
「そんな特別な事はしておりません!」
「そうかもね。でも、僕にとっては特別だったんだよ」
そう言って、フランクリンは包んでいた手を取り上げてその指先にキスをした。まるでお姫様にするようなものだった。
「君に、ずっと側にいてほしい。メイドじゃなくて、隣に。僕は弱いから、またダメになるかもしれない。その時に君がいてくれたら、僕はまた立ち上がれる。君の事を幸せにしたいって、全力でいられるから」
「フランクリン様……」
「……明日、中庭に来て。僕は頑張るから」
そう言ってもう一度指先にキスをして微笑んだ人に、ルシールの心臓は破裂してしまいそうなほど音と立てていた。
◇◆◇
翌日、リッツやアラステアも見守る中ルシールは立たされた。そして正面にはフランクリンがいる。距離にして三メートル程だが、フランクリンの足だけではこの距離は遠いものだ。
「いい? 絶対に動かないでよ!」
そう念押しした彼はゆっくりと車椅子から立ち上がる。左足に体重を掛けた途端に崩れそうになりながらもどうにか小さく進んでくる。半分引きずるようだ。
心配で、倒れてしまわないかとオロオロして、同時にこんな自分の為にこの人がこんなに苦労する必要なんてないのにと苦しくなる。
でも、真っ直ぐにこちらを見つめる目は強くて、とても意地っ張りなものだった」
「あっ」
「!」
バランスが取れず崩れて転び、服は土が付いてしまう。
思わず駆け出してしまいそうだった。けれどその前にフランクリンは大きな声で「こないで!」と命じた。ビクリと体が強ばり動けない。その目の前で、彼はゆっくりと自分だけで立ち上がり再びこちらを目指してきた。
視界が滲む。ここまでの価値が本当にあるのか? 側にいるだけでいいなんて、そんなのいいわけがない。
何度も転んで、立ち上がって。綺麗な服は土や草がついてしまった。左が利かない分右足に負担がかかっている。それでもゆっくりと近づいてきたフランクリンはとうとう、ルシールの目の前に来て困ったように微笑んで、涙でぐちゃぐちゃの頬を手で撫でた。
「ルシール、君の事が好きだよ。僕と、結婚してください」
愛情が欲しかった。
親に捨てられ、その他大勢の道具のように育ち、愛も知らぬ間に身を落とした。
保護されて愛情を知って絶望もして、恋も愛も得られないんだと自分を納得させた。
けれど本当は、何処かで思っていた。こんな自分でも望んでくれる人が欲しいと。自分だけを想ってくれる人が、欲しいと……。
「はい……私で、よろしければ」
涙声で引きつってしまう声。止まらない涙。それをずっと笑って拭ってくれる優しい人を愛そう。手放さないように、隣に。受ける愛と同じだけ返せるようになろう。
自然と湧き上がった拍手と祝福の声に驚く。リッツも、アラステアも笑って頷いてくれた。
日差しも暖かな穏やかな秋。
ここに幸せな一組の夫婦が誕生したのだった。
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