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第2話 海の碧
脱出ポッドが陸地へと運んでくれたことは幸運だったかもしれない。
だが積まれていた携帯食を最後に食べたのは2日前。
足はもう前に進めず、もはや、立ち上がることもできない。
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碧い海。
ヴィクトルは心の中でつぶやいた。
見たこともない、しかしどこまでも広がるその海を目指し、行く当てのない彼は足を進めようとしていた。
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食料が尽き、水も底をつき、力尽きて地へと膝をつく。
山間の風が冷たく彼の頬を撫でる。
目を閉じ、身体が疲労と空腹で崩れ落ちようとしていることを感じた。
そのとき、何かが意識を引き戻した。
静かな足音。そして、視界に映った碧い瞳。それはまるで海そのもので、ヴィクトルは一目見て心を奪われた。
首元には恐怖の印と教えられた鰓のようなあざがあり、その碧い瞳をヴィクトルに向けて見つめている。
その少女は人魚だった。
「海の、、、碧だ、、、」
彼の声はかすれていた。しかし、その言葉は彼の心の中に深く刻まれ、確かな存在感を放っていた。
「海?あなた海が見たいの?」
少女の声はやさしく、しかし驚きに満ちていた。
「あっ、ちょっと待ちなさい。気を失っているんじゃないわよ!」
だが、彼女の言葉が遅すぎた。彼はすでに力尽きていた。
瞳はゆっくりと閉じられ、意識は闇に飲まれていった。
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目を覚ますと、前にはぼんやりとした色彩が広がっていた。
思考がまだ霧に包まれている中、その色彩が何なのかを理解しようと試みる。
それは青い空の色で、その周りには深緑の色が広がっていた。
次第に視界がクリアになり、彼は自分が樹木の間に横たわっていることを認識した。
全身は筋肉痛、胃は空っぽで鳴りっぱなし。
体が覚えている最後の記憶は、自分が膝をつき、そして誰かの碧い瞳を見つめていたことだけ。
ふと、目の隅に何を捉えた。
首をひねってその方向を見ると、傍らには黒い髪の少女が座っていて、手には過去に画像で見た果物のようなものを握っていた。
「あら、目を覚ましたのね。よかったわ。」
彼女の声は優しく、彼の耳には心地よい響きがあった。
「水……」
彼の声はかすれていたが、少女はすぐに小さな水筒を彼の口元へ運んだ。
彼女の碧い瞳。彼女の髪。彼女の声。
すべてが頭の中で結びついて、記憶が蘇ってきた。彼女は人魚だった。そして、求めていた海の色だった。
「ありがとう」
彼の声は少し強くなり、感謝の気持ちを込めて彼女に告げた。
「君の名前は?」
「私の名前はアリア。」
彼女は微笑みながら答えた。
「そしてあなたは、どなたかしら?」
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「僕はヴィクトル。アリア、ありがとう。」
彼女は微笑み、頭を優しく下げた。彼女の手に握られていた果物が、目に留まる。
「それは、、何?」
聞くと、アリアは果物を差し出した。
「食べてみて。おいしいわよ。」
迷いつつも受け取る。それは赤くて、表面がつるつるしていて、手に心地よい重みがある。
ひと眺めした後、果物を口元に持っていき、そして噛みついた。
一瞬の間に、舌は未知の味に包まれた。それは合成食では味わえない、自然そのものの味だった。
甘さ、酸っぱさ、そして何よりもその果物が持つ独自の風味。彼の舌はそれに驚き、そして感動した。
「これは……」
思わず言葉を失う反応をみて、アリアは笑った。
「何?美味しくないの?」
ヴィクトルは彼女に振り返りこたえる。
「いえ、それは・・すごい!すごく美味しい!合成食では食べたことがない味だ。」
彼女の目が瞬き、彼の言葉に混乱した表情を浮かべた。
「合成食って何?」
ヴィクトルは瞬間、自分が何を言ったのか理解した。
彼女は合成食を知らない、そして彼が何を話しているのか分からない。
少し苦笑した。
「ああ、それはね、機械が作る食事のことだよ。味はほとんどないけど、必要な栄養分は全部含まれているから、生きていくのには十分なんだ。でも、この果物のように味わい深いものは、僕らの世界ではなかった。」
アリアは驚いた顔をした。彼女の知る世界では、食物は自然から手に入るもので、そのどれもが自然の恵みとして、味わい深く美味しかった。彼女にとって、合成食などという概念は全く未知のものだった。
「それって、、、すごいけど、、ちょっと哀しいわね。」
アリアは彼女なりの感想を述べた。
「じゃあ、これからは、もっと美味しいものを食べさせてあげるわ!」
彼女のその言葉に、ヴィクトルは心からの笑顔を見せた。
「それ、楽しみにしてるよ、アリア。」
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