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第4話 海へ
「アリア、海を見に行きたい。」
それはヴィクトルが私の家に来てから数日後のことだった。
彼の言葉が、静かな森の中に響く。
その瞳は、いつもとは違う、深い憧れと期待に満ちていた。
「海?」
私は驚いて彼を見つめた。人間が海を望むなんて想像もしていなかった。
その深青の世界は私のもので、私たち人魚の安息の場所だった。
だけど、それと同時に、海は危険な生物、恐怖すら感じる「海獣」の棲家でもある。
「うん、海。」
彼は頷き、少し照れくさそうに笑った。
「僕が住んでいた所では、地上の映像が流れていたんだ。その中で、海の映像が一番好きだった。
それに、君の瞳はまるで海のように美しいから、本物の海を見てみたいんだ。」
彼の言葉に、私の心はまたしてもぴょこんと跳ねた。
しかし、その喜びはすぐに不安に変わる。
海は私の生活の一部だったし、それを彼が見たいと言ってくれたことが、何とも言えず嬉しかった。
だけど、海はもう私たちの場所ではないのだ。
――― そこにはあの化け物、「海獣」がいる。
「それなら、私が案内するわ。」
私はにっこりと笑い、彼に手を差し出した。
「でも、準備が必要だから手伝ってね。そして、海には危険がいっぱいあるから、それも覚悟して。」
彼は私の手を握り、笑顔で頷いた。
「ありがとう、アリア。そして、危険も覚悟する。」
私は彼に、海の美しさ、その広大さ、そして私たち人魚の生活を伝えることが楽しみだった。
そして何より、彼が初めて海を見たときの表情を見ることが、私は待ち遠しかった。
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「そうね、ヴィクトル。
海への旅には、しっかりとした準備が必要よ。特に、食糧や水、寝具など、基本的な生活必需品が重要だから。」
ヴィクトルの瞳には、純粋な興奮と真剣な気持ちが宿っていた。
その表情にちょっぴりドキリとし、一緒に旅の準備を進めることを約束する。
まず、私は彼に食糧の保存方法について教える。
私たちが海辺で過ごすためには、新鮮な食料が長持ちするように、それを乾燥させるか塩漬けにする必要がある。魚だっていつも釣れるとは限らないのだ。
次に、水の確保について。
海辺では淡水が限られているため、雨水をためる容器や、海水を飲めるようにする方法を準備する。
そして、私たちは寝具や衣類の準備に移る。
海辺の夜は冷え込むことがあるので、温かい寝具と着替えが必要だ。
一緒に準備を進める中、熱心にメモをとる真剣な姿に、本当に海を見ることを楽しみにしているんだと確信し、心が躍る。
私たちはこれから新たな旅に出発する。それは少し難しそうだけど、私たちは一緒にそれを乗り越えていく。それぞれの一歩が、私たちの新たな冒険の始まりだと感じていた。
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目が覚める。
窓の外には、淡い銀色に輝く月明かり。
深夜の寒気が皮膚を冷たくさせる。
まだ夜中もよいところだ。
広めの寝室にベッドが二つ。
ここではアリアのお婆さんの寝床を使わせてもらっている。
何年も前からそこにあったらしき古い木製のベッドは、時間を経てややギシギシと音を立てる。
月の明るい夜だった。
半身を起こし、アリアの方をみる。
肩をゆっくりと上下させ、毛布を横に抱きしめるように寝ていて
健やかな寝息が聞こえる。
アリアとは寝る前に毎晩お話をする。
今夜は特に長い旅の話だった。
海への冒険について。
ここまで、お婆さんと一緒に越して来たらしい。
その旅で見たもの、感じたこと、そしてあらゆる生き物の声を懐かしむように、楽しそうにアリアは教えてくれた。
「海鳥の声、荒波が岩にぶつかる音、塩辛い空気の味、それら全てが忘れられないわ」
と彼女は微笑んだ。
「そして旅の基本は体力、よく寝ることよ。」
彼女は一瞬真剣な表情を浮かべ、その言葉が耳に残ったかと思うと、早くも隣から寝息が聞こえてきた。
この寝つきの良さ、見習わせてもらわなければと思う。
風邪をひかぬようにと、布団をかけなおす。
月明かりに照らされたその横顔に、少しどきりとする。
彼女を起こさぬよう、そっと外の厠へ。
地上の食べ物の刺激が強すぎたのか、ことのころ少し胃の調子が悪い。
家の扉を開けると虫の音が聞こえ、空には満天の星空が広がっていた。
デジタルアーカイブで幾度となく見た地上の景色。
そして、今まで見たこもない世界。
木々が風に揺れる音、そして風に乗って漂う、何種類も混ざった草の香り、そのすべてが新鮮で美しく、愛おしかった。そしてそれは、地底では決して得られない経験だった。
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