1日目

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1日目

病院はいびつなピラミッド社会だ。 てっぺんが医局、その次が看護部、その次が患者、そしてリハビリテーション科はド底辺である。 皆が「命を扱っている」という大義名分のもと、お互いを批判し、ストレスを掛け合い、疲弊し、いつもリハビリテーション科は行き場の失った真っ黒などろどろとした感情の餌食となる。  中島 通(なかじま とおる)――45歳。リハビリテーション科の係長だ。昔は仕事に対するこだわりも強くて同僚と喧嘩することもあったが、役職にもついて久しくなれば他部署に対して相当ヘコヘコかわすことにも慣れてしまい、部署内の仲間に対しても丸くなってしまった。黒縁の眼鏡をかけているがよく頭に置き忘れて探し回っていると「おじいさんになりましたね。」と後輩から半分呆れられてしまう。つぶれるまで飲むのが好きであるせいか「へべれけ路線の中島さん」といわれることもある。 「まったくもって迷惑な話だ。」 中島がぼそっとつぶやくや否やピッチ(PHS)が鳴った。どこから鳴っているのだろうときょろきょろポケットを探すと横にいた主任の亀田 光毅(かめだ こうき)が電子カルテのキーボードの横に置かれたピッチを指さした。 「うわ!中島さん、八下先生からですよ。」 「うそっ。あのフグ。次は何だ。」 八下 英子(やしも ひでこ)内科で機嫌が悪くなると激昂する50代の女医である。 「はい、リハビリテーション科中島です。」 「あ、中島君。あのさ、さっき退院調整の足立さんから連絡があったんだけど、リハビリの多良さんが足立さんそそのかして私に意見書とかさ、書類書かせようとそそのかしたみたいで、リハビリの立場としてそれはどうなのかってことを言いたいのよ‼」 「は?知りませんけど。そんなこと。」 思わず言ってしまった。導火線に火をつけてしまった。これを病院では「地雷を踏んだ」という。 「うわー、むっちゃ怒られたわ。うっそ、カルテに俺とのやり取りも書かれているって。うわ、俗にいう『炎上』だな。」 カルテを見たのか後輩の多良 雪子(たら ゆきこ)が走って中島のもとにやって来た。 「中島さん!なんだか私のやったことがとんでもないことになっているみたいで‼」 「あ~タラコ(たらゆきこの略)。なにがあったんだ?」 廊下を真っ直ぐ歩いて角を直角に曲がるような多良が足立をそそのかすテクニックなど持ち合わせているはずがない。 「担当患者の佐々木さんのことでリハビリの現状をMSW(メディカルソーシャルワーカー)足立さんと話しただけなんです!すると、足立さん、主治医の八下先生が意見書を書くのが遅いからとか何とか言ってたのですが、気づくと私が足立さんそそのかした事になっていて!!」 ――そんなことだと思った。 「でもさ、佐々木さんって骨折の患者さんじゃなかった?なんで内科の八下先生が主治医なってんだ?」 「あーそういえば手術したのは整形外科の寿田先生なんですが、元々内科で入院したので手術すると直ぐに転科しちゃったんです!!」 「内科で入院?」 「はい、脱水で倒れていたのを救急搬送されたので内科入院だったんです!でも後で骨折見つかって…」 ――脱水なんて手術前に治っているだろう!? とっぷり暗くなって不気味になった訓練室の片隅で三人は何も言わずにカチャカチャ電子カルテのキーボードを叩いていた。 「寿田先生、最近忙しいからってさ、わざわざ八下先生にふることないですよね。」 無言に耐えきれず亀田が話のネタを復活させた。 「私も。なんでよりによって八下先生と交代するんだろうって。ショックで。でも寿田先生もややこしいんですけどね。」 多良がそう言った瞬間、今度は亀田のピッチがなった。 「うわっ!寿田先生!!何だ、こんな時間に!」 慌てて通話をオンにした。 「あー亀ちゃん。整形外科の寿田だけど。」 声のトーンの低さで不機嫌さが分かる。 「僕の患者の吉川さんのリハビリのカルテにさ、『主治医寿田Dr.より膝関節90度以上の屈曲を控えるよう指示あり』ってあるけどさ、THA(人工股関節置換術)なのに膝関節の指示なんて出すはずないけど。」 「ハッ!!そうなんですね!すみません!」 「先週水曜日から今日までの多良さんの記事。」 横で聞いていた多良はぞっとした。 「なんか多良さん、八下先生の地雷踏んだって聞いたけど、あの子本当に大丈夫??」 「あー!!全然大丈夫じゃないです!」 多良はキーボードの上に突っ伏した。 「あー、タラコさん!カルテに謎の暗号がどんどん打ち出されてる!」 「ホラ、起きろ!!」 亀田と中島は自暴自棄になっている多良をなだめようとした。 「先生が膝関節って言ったんです!」 「おかしいと思わなかったのか?」 「思いましたよ!股関節の手術なのに!」 「聞き返したのか?」 「一度聞き返しましたよ!でも膝関節だって。これ以上聞くと先生もキレると思ってそれ以上は聞けなかったんです!!」 ――まあ、寿田先生も若く見えるが30代後半だしな。言い間違いもするか。 「あー!!もう切腹します !」 「御前が腹を切るのなんて誰も見たくもないわ!」 「中島さん!タラコさん!もう帰りましょ!寝たら治る…なんちゃって!」
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