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1.旅芸人一座「鳴る風」参上
(え、なに?なんなの?)
割れるような歓声。
熱っぽい視線。
初老の女たちが浴衣がわずかにめくれ上がるのにも気がつかず
膝立ちになっている。
彼女たちは血管の浮いた手で口元を覆ったり、
まがった指で目尻の涙をぬぐう。
でも瞳を見開くことはやめない。舞台に釘付けだ。
そのざわめきの中で清沢萌子は驚きのあまり唇に手を当てた。
(こんなの知らない。
こんなの初めて)
大広間に立ちこめた熱気に包まれ、
しばし呆然とするその視線の先では、旅芸人の芝居が繰り広げられていた。
主役を張る彼女の名は「九藤千風(くとう ちかぜ)」
年齢は萌子よりも少し年上に見える。
しかしその艶っぽさといったら圧倒的だ。
ぬけるように白い肌
切れ長の大きな瞳
頬にかかる紫がかった黒髪は腰まで届くほど長く、
わずかに開かれた唇は
ぽってりとした丸い果実のよう。
すごく甘そう・・・
その声
まるで心臓をつかみに来るような
一度聞けば、もっと欲しくなるような声で
悲しい台詞を唄っている。
もっと
もっと
初老の女たちは貪欲に、九藤千風を味わい尽くす。
「千風姫ぇ」
と黄色い声があがる。
その夜の温泉宿「きよさわ屋」の大広間。
旅芸人一座「鳴る風」の興行のひとこま。
そこで客への給仕の間に舞台に釘付けになる清沢萌子は十二歳。
小百坂小学校へ通う六年生だ。
彼女は温泉宿「きよさわ屋」の一人娘である。
(ふわーやっぱすごい綺麗。本物ヤバすぎ。九藤千風!)
SNSで存在こそ知ってはいたが、
彼女を目の前にして萌子は客への給仕も忘れてしまう。
自分の心臓がドキドキと音をたてているのをただ感じている。
萌子の両親の経営する温泉宿「きよさわ屋」は
部屋数二〇の小さな宿だ。
小規模であるが細部までこだわりをつくした宿は、
この日本有数の名温泉街の中でもなかなかの人気。
父は料理長。
母は女将。
以前は祖母が女将をしていたのだが、
萌子が物心つく頃にはすでに母がその後を継いでいた。
萌子は仕事で朝から晩まで忙しく動き回る母ではなく
祖母に育てられたといっても過言ではない。
今夜の旅芸人一座「鳴る風」の興行は、
一年前から計画していたイベントだった。
「鳴る風」はいまや飛ぶ鳥を落とす勢いの人気の一座。
オファーしてから承諾の返事がくるまでかなり時間がかかった。
ようやくとれた予約がずいぶんと先になるのも
承知の上のことだった。
「鳴る風」のファン層は実に厚く、
中高年女性だけでなく男性をも、
そして若年層までもまきこむほどだ。
特筆すべきはSNSでも拡散される
一座の中心人物「九藤千風」の美しさ。
それは、まぎれもなく唯一無二。
ひきずりこまれる「千風沼」溺れるファン多数。
この魅力を前にしては、それもいたしかたなかろう。
熱狂の舞台がはね、
興奮さめやらぬ客たちはまだ大広間でさえずっている。
その間を縫うように注文の飲み物を運ぶ萌子に女将から声がかかった。
「ちょっと、萌子さん、来てくれる?」
「はい」
飲み物のグラスを客に出し終え廊下に出ると、
女将が少し申し訳なさそうに言った。
「萌ちゃん、そろそろあがって」
従業員の前では萌子さんと他人行儀だが、
いつもの母の顔にもどって「萌ちゃん」と呼んだ。
「こんな時間までごめんね。学校の宿題は大丈夫?」
「うん。今日は塾もないし平気だよ」
「ほんとに助かったわ。ありがとう」
「ううん・・・お母さんはまだ・・・?」
「私はもうちょっと仕事あるから、先に帰ってて。
おばあちゃんももう帰っているでしょ」
母に女将を引き継いだ後、年を取ってこそいるが健康そのものの祖母は
ずっと旅館の経理を担当していた。
毎日、朝は八時に出勤して夕方の五時までは旅館の事務室にいる。
だから、萌子は小学校の帰りにはまず旅館の方へ戻り、
祖母と一緒にうちに帰るのが日課だった。
時刻は午後7時を回ったところ。
今からうちに帰っても、
祖母はお風呂に入ってもう横になっているかもしれない。
元気だと言っても年寄りだ。やはり疲れるのだろう。
「帰る前にもう一つだけお願いしてもいい?」
「いいよ、なに」
「鳴る風さんを楽屋から松の間にご案内して」
「う、うん、いいけど」
(うわ、緊張しちゃうな)
「みなさん、お疲れだろうし、おなかぺこぺこだと思うのよね。
お父さんがお弁当を作ってくれていると思うから、
厨房へ行ってそこでまた指示してもらって」
「わかった」
萌子はがぜんやる気が出た。
(だって頼られるって嬉しい。)
萌子は小走りで階段を降りる。
そして板前である父の待つ厨房へ向かった。
厨房へ着くと、
そこには父が丹精込めて作った松花堂弁当が用意され
ワゴンに乗せられていた。
「お父さんっ」
「おお、萌子、待ってたぞ!」
「これが運んで行くお弁当?」
「そうだ。松の間に頼むよ。」
「うん、わかった」
「飲み物は、仲居さんにあとから注文をとってもらうから、
この弁当だけテーブルに並べておいてくれ」
「はい」
(えーと、まずはお弁当を並べて、
それから、楽屋にしている部屋へに行って
お座敷までご案内する、だね)
制服の着物はポリエステルだし、
帯は引っかけるだけの作り帯だけど、
やっぱり着物を着るとしゃんと背筋が伸びる。
萌子は小さな頃から着慣れているこの着物というものがとても好きだった。
萌子は廊下の窓に映る自分の姿を見つめると、
半襟をピリッと引っ張って整えた。
窓の外には温泉街の街灯がポン、ポン、と
乳白色の月のように浮かんで見える。
その間を楽しそうに観光客が行き交う。
遠くてその顔は見えないけれど、きっと笑顔なのだろう。
そう思うと萌子もなんだか幸せな気持ちになるのだった。
松の間にお弁当を並べ終わった萌子は、
ドキドキしながら廊下を歩いていた。
(ほんと緊張しちゃうな。楽屋でしょ、当然いるよね、九藤千風)
一座が使っている部屋の扉は開いている。
萌子はおそるおそる、中をのぞき込んだ。
「あのー失礼します」
(あ、れ?だれもいないのかな)
部屋の中はしんとしていて、静かだ。
踏込の奥には前室があり主室を隔てる襖がある。
閉ざされたその襖に向かって、萌子はふたたび声をかける。
「すいません、宿のものですが、お食事の用意ができています・・・」
しかし何の返事もない。
仕方が無いので、萌子は襖に手をかけ、
おずおずと引いた。
座敷の片隅で、鏡に向かっている背中が見えた。
萌子の声にびくりと背中を震わせ、
振り向きざまに
「わ・・・」
そう小さな声をあげた瞬間、肩に羽織っていた着物がするりと落ちた。
色白の細い肩があらわになる。
「す、すいませんっ、勝手に入って」
萌子は慌てて背中を向けた。
(どうしよう。たしかあの着物、九藤千風じゃない???)
背中で、その人物が立ち上がる気配がする。
(怒ってる?怒るよね、どうしよう、こっちに来る・・・)
「ほんと、ほんとすいません、
お食事の用意ができたのでご案内しようと思って」
萌子は下を向いたままそう言った。
「ったく、勝手に入ってくんなよな」
(え?)
その乱暴な言葉遣いに萌子は固く閉じた目を開けた。
見上げるとすぐそばに千風の顔があった。
(うわ、近っ)
萌子は思わず後ずさる。
「メイク落としてたとこなのに。ったく」
不機嫌そうにそうつぶやく千風は、
ひっつめた髪をターバンで巻きとめている。
綺麗な額とあますところなくあらわになった顔。
やはりその美しさといったら息をのむほど・・・。
萌子は口をぽかんと開けたまま思わず見とれてしまった。
が、はっと我に返り、慌てて唇を引き締めると、
「す、すいません。ほんとに・・・」
と頭を下げた。
「ふん。ったく、早く出てけよ」
千風の機嫌はすぐに直りそうにもない。
萌子は千風の言葉にしゅんとして、部屋を出て行こうとした。
が、次の瞬間何かを踏みつけ、つるりと滑った。
(うわわわわわぁ)
尻餅をついた時、その手が触れたのは、
「毛っ?」
(紫がかったつやつやの髪の束・・・これって鬘?)
「返せって。」
またもや怒ったように声を荒げ、千風が萌子から鬘をひったくる。
萌子をにらみつけるその目からは、
長いつけまつげが今にも外れて落ちそうだ。
「お前、一体何しに来たの?」
鬘をそばのボストンバックの上にふわりと置くと、
千風は鏡の前に戻った。
もう萌子の方を見ることもなく鏡をのぞき込み、
つけまつげをはずそうと指で引っ張っている。
「え、っとあの、そうだった。
あのぉ、松の間にお食事の用意が整っておりますので、
お越しくださいませ」
「ああ、わかった、みんなに言っとく」
「他の皆さんは・・・?」
「風呂だよ風呂。風呂に行ったんだって」
めんどうくさそうに答えながら、
瞳をしばたかせる。
リムーバーをしみこませたコットンで
アイシャドウを拭う手つきは慣れたものだ。
「あ、皆さん、お風呂ですか。了解、です。
・・・それ・・・では、あのっ失礼いたしました」
そう言いながら出て行こうとする萌子の手首を、
突然「待てよ」と千風がつかんだ。
「ひゃっ」
そして飛び上がった萌子をにらみつけるようにして言った。
「ここで見たこと、言うなよ、誰にも」
「は、はいっ」
萌子はその手が解けると、あわてて廊下に飛び出した。
まだ胸の鼓動が騒がしい。
(なによあの態度。まるで男みたい。
九藤千風ってほんとえらそう!)
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