9.イチジクのタルト

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9.イチジクのタルト

萌子はその日の放課後も 家庭科研究クラブに参加していた。 「みなさん、今日は昨日の続きです。 冷蔵庫に寝かせておいた タルト生地を取り出してください」 山里先生がそう言うと、 みんないっせいに 冷蔵庫から自分の名前の書いてある タルト生地を取り出した。 昨日、バターと砂糖を練り混ぜて、 そこへ卵と小麦粉を入れて よく混ぜた生地。 それをラップに包んで 冷蔵庫で寝かせておいたのだ。 生地はしっとりまとまっていて 昨日よりもずいぶんと 扱いやすくなっていた。 「生地を麺棒で5ミリくらいの厚さに 伸ばします。 それをタルトカップに敷き込んで、 もう一度冷蔵庫で寝かせます」 「よく寝るんですねぇ、タルトさんは」 委員長が真面目な顔で そんなことをつぶやいたので、 みんなクスクスと笑い声をたてた。 「おいしくなるためには 必要な時間ですよ-。 少し寝かせたら、 そのあと焼きますからね!」 山里先生も楽しそうにそう言った。 「さて、季節ごとにいろいろな 果物がおいしくなりますね。 それを旬というのだけれど、 秋は柿、サツマイモ。 冬が来るとミカンやリンゴも おいしくなります。」 「アップルパイ!」 「春は早春から苺が実りますね」 「苺ショート!」 みんなが好きなケーキの名前を上げていく。 (ああ、想像するだけでも うっとりしちゃう。 ケーキ食べたいなぁ) 萌子は先生の話をウキウキしながら 聞いていた。 「じゃあ夏の果物はなんでしょう?」 「スイカ!」 「モモ!」 「ブドウ!」 そう言うどの顔も楽しそうに ほころんでいる。 「あ、先生の思っている果物が ないわ。 今日はまだ皆さんから 名前の出ていない果物を タルトにのせようと 思っているんだけどなぁ」 「なになに?なんだろう」 「正解は・・・」 先生がみんなを ぐるりと見回した。 「イチジクです!」 「イチジクのタルトだって! そんなの食べたことない」 優美が萌子の耳に 唇を寄せてささやいた。 「イチジクがタルトになるのかな・・・」 萌子もそう思った。 「そして、タルトに使うイチジクは 管理人さんが世話してくださっている、 学校のイチジクを使おうと思います!」 山里先生は 瞳をキラキラさせて そう言った。 校舎の裏手には用務員さんと 生物委員会が世話をしている 菜園があり、 そこに大きく枝を広げた イチジクの低木があった。 毎年たくさんの実を つけたそのイチジクの木は 子供たちの垂涎の的で、 夏になると給食の時間に その小さな自然の恵みが みんなに一つずつ配られる。 少人数制の学校ならではの 季節のお楽しみだが、 こういう体験こそが 学校教育には 欠かせないものなのだと、 校長先生も 毎年かならず実行している。 萌子もイチジクの実が 赤紫色に柔らかく熟すのを 心待ちにしていた。 「さて、では今からだれかに 取りに行ってもらいましょうか・・・」 先生は クラブ員の顔を ぐるりと見回すと、 「清沢さん、 それから佐藤さん。 あなたたち二人、 お願いできる?」 「はーい!了解しましたっ」 と優美が笑顔で返事をした。 「まだまだ たくさん 実っているみたいよ。 もう収穫してくださっている と思うわ。 よろしくね」 「はい」 優美はとなりでうきうきと スキップなんかしている。 朝から上機嫌なのだ。 山里先生からは管理人さんの 収穫作業がまだだったら 手伝うようにと仰せつかっている。 「またまた昨日の話なんだけどさ」 優美はまた光の話を始める。 もう頭の中が光一色なんだろう。 萌子にとっては ただの幼なじみだけれど、 優美にとっては大好きな人。 なんだかそれが 不思議な感じがする。 おしゃべりに花をさかせていると 一瞬で管理人室に到着した。 管理人さんは 二人が顔をのぞかせると、 かごいっぱいの イチジクを渡してくれた。 家庭科室へ戻ると 今度は山里先生の 笑顔が迎えてくれた。 「ありがとう。 わあ、おいしそうなイチジクね。 あとで管理人さんにも タルトを召し上がっていただきましょうね。 さっそく始めましょ」 甘く熟れたイチジクからえもいえぬ いい香りが立ちのぼってくる。 (これをタルトにのせるのか。 うむむむ! 絶対にハズレなわけない!) 萌子は急いで作業にかかろうと 冷蔵庫から寝かせていた タルトカップをとり出した。 しばらくするとオーブンからタルト生地の 焼けるいい匂いが漂ってきた。 これはバタークッキーの焼ける香りに 似ている。 「これぞお菓子作りの醍醐味よねぇ」 萌子は自分の鼻の穴がふうんと 開いているのに気がついて 慌ててあたりを確認した。 (また千風姫に見られでもしていたら、 ほんとにほんとに恥ずかしい)  と思ったが、 今日は千風の姿はなかった。 (あれ・・・千風姫、来ていない。 やっぱり舞台で忙しいのかな) 萌子は千風がスターだということを いつも忘れてしまうのだ。 だって千風はいつも視線の先にいて 目が合うと笑ってくれたから。 (いないとなんだか寂しいな。) 気を取り直してホワイトボードに 目をやると、 カスタードクリームの 作り方が書いてある。 材料は、卵黄にミルク、小麦粉、お砂糖だ。 (この四つの材料だけで ほっぺが落ちるほどおいしい クリームができるなんて!) 萌子は初めてカスタードクリーム の作り方を山里先生に教えてもらった時の 感動を思い出す。 お鍋の中でふつふつと呼吸をするように クリームが炊き上がる時の香り! あの優しいクリーム色! そうだ。 お菓子作りは萌子にハッとするような驚きや 湧き上がるワクワク感、 口にした時の喜びをくれた。 そして、その後の余韻は 心を優しく包んでくれた。 (本当に本当に パティシエになりたいなぁ) いつのまにか山で 中学生が近づいてきた 恐ろしい記憶は 心の片隅に追いやられて・・・ 小野田さんのとがった耳のことだって・・・ お菓子作りをしていると いつもそう。 嫌なこと、 つらいことも忘れられる。 萌子のパティシエへの 憧れは日々強くなる。 ぼんやりと心の中に浮かんでいた 夢みたいなものが だんだんと現実と重なっていく。 手を伸ばしてしっかりとつかみたい。 そんな強い気持ちになる。 「さあ、タルトカップに カスタードクリームと カットしたイチジクを のせてくださいね」 山里先生が言う。 そしてみんなのテーブルを回りながら ミントの葉をちょこんと タルトのてっぺんに 飾ってくれた。 「うわー。 ミント飾ったら可愛い! お店のケーキみたいになった!」 みんな頬を紅潮させて自分の作った ケーキにみとれている。 みんな、 お菓子作りが大好きなのだ。 今日は持ち帰り用の ケーキボックスに タルトが三つ入っている。 (一つはお母さん、 一つはおばあちゃん。 もう一つは千風姫にあげよう。 うーん、でもどうしようかな。 食べてくれるかな。 やっぱりやめた。 でも、やっぱり・・・ ああーどうしよっかな) 恥ずかしいし、 千風がどんな顔をするのか 不安。 だけど萌子は 最初から決めていたのだ。 このイチジクのタルトは 千風に食べてもらおうって。 校門から出ると、 優美のお母さんは 優美を車に乗せようと 待ち構えていた。 優美もあまりの母親の強引さに もう反抗することすら 面倒に思えると言っていた。 母親の姿を見つけると、 やれやれといった様子で 首を横に振ってみせた。 優美の後ろ姿を見送って、  萌子は歩きだした。 萌子がきよさわ屋に戻ると すぐにお母さんが 萌子を捕まえにきた。 「萌ちゃん!ヘルプ~」 「どうしたの?」 「ちょっと人手が足りないの。 また鳴る風さんのお弁当、 お願いできる?」 (千風姫に会える!) 萌子は笑みがこぼれそうになるのを なんとか押さえてまじめな顔で頷いた。 「わかった」 「着替えないでそのままでいいわよ。 お弁当、運んでもらったら おばあちゃんと帰っていいから! ごめんね!」 母親はそう言うとまた慌ただしく 旅館の中へと戻っていく。 母は本当にいつも忙しい。 やはり今日もタルトを食べてもらうことは できそうにない。 (やれやれ・・・ いつもながらに母のパワー、すごし!) 萌子は心の中で母にエールを送る。 そしてスカートを翻すと  さっそく厨房へ向かった。 お父さんから指示を受けて お弁当を座敷に並べ終え、 萌子はドキドキしながら 楽屋の座敷へ向かった。 「失礼しまーす」 そう声をかけると、 中からいきなり襖が開き千風が顔を のぞかせた。 「わっ!びっくりした!」 萌子は思わずそう言った。 千風は洗いざらしの髪にノーメイク。 アニメのTシャツにジャージのズボン といった格好だ。 完全に康介に戻っているというのに、 萌子を前にして隠れようともしない。 「うわっ 完全に元の姿にもどってる」 萌子は思わずそう言った。 「あったりまえだろ。芝居終わったもんね」  千風は憮然として言う。 「私、誰にも言わないからっ」 「わかってるよ。 お前は人に言ったりしないって 俺は信じている」 態度は限りなくえらそうだが、 その言葉が嬉しくて 萌子は思わず笑みがこぼした。 「お前、 とっくに気がついてたんだろ?」 「うーん、たしかにすぐにわかった。 だって・・・」 「だって?なんだよ」 「いつも近くで応援しているから。 千風姫のこと」 萌子はそう言ってしまってから ものすごく恥ずかしくなった。 千風もその言葉に一瞬赤面したが、 すぐにその表情を消して、 「おい、腹減ったぞ・・・」 と言った。 「お弁当の用意できてるよ!」 萌子は慌てて千風の前を小走りで進み 座敷へと向かった。 「お前いつも大変だな」 「え?」 「ほら、よく座敷でも飲み物運んだり、 皿、下げたりしてんだろ。 大変だな」 「そんなことないよぉ。家業だから」 「家業、か。」 「うちは家族みんなでやってんだから 手伝うのなんて当たり前でしょ」 「家族みんなで・・・か」 「このお弁当だって、 あ、料理長だけど、 うちのお父さんが作ってるんだよ!」 「そっか」 「そこの床の間に飾ってあるお花も 客室や廊下にある生け花も お母さんが生けているんだ」 萌子が誇らしげに言った。 「へえ、生け花まですげぇな。 うわ、旨いっ。お前の親父さん、  さすが料理長だな」 千風はいつのまにか箸を取り 弁当を食べ始めている。 萌子はおいしそうに食べている 千風の顔を見ていると 自分が褒められたかのように 嬉しい気持ちになった。 「あれ?他の人は?」 「ああ、風呂、風呂」 「一緒に食べないの?」 「え?」 千風は口いっぱいにご飯を頬張って 不思議そうな顔をする。 「だって、一人でごはんなんて 寂しくない?」 「別に。いつものことだし。慣れてるから」 「みんなと一緒に食べたら おいしいよ、きっと」 萌子はそう言って笑って見せたが、 千風と目が合うと全然笑っていない。 さっきまで あんなに話が弾んでいたのに・・・ 萌子はきまずくなって 目をそらしてしまった。 「あ、そうだ。千風姫」 「なんだよ?」 「今日、カテケンでタルト作ったんだ。 イチジクのタルト。 ちょっと取ってくる」 厨房の冷蔵庫まで急いで行くと 萌子はそれを取ってきた。 「どうぞ」 「え?もらってもいいのか?」 「うん」 千風が本当に嬉しそうに笑ったので 萌子まで嬉しくなってしまった。 勇気を出して千風にタルトを 渡して良かったと思った。 「あの・・・千風姫」 「ん、なに?んーうまー!」 タルトを頬張りながら目を細めている 千風が唇をもごもごさせながら 萌子の方を見た。 「あの新しく一座に入った人って どんな人?」 「小野田さんの事?なんでそんなこと聞くの?」 「い、いや、どっから来たのかなとか・・・」 「募集してたからね、 動画の編集得意な人。 俺、もう、 舞台だけで手一杯だから」 「あの人は・・・」 「ん?」 「耳が・・・」 「へ?なんだよ、耳って」 「とがった右耳の男かもしれないっ」 (言ってしまった・・・) 萌子は千風に どう説明していいかわからず 口ごもった。 「とがった右耳の男?なんだそれ」 「あのね・・・二年前、温泉街の酒屋に」 萌子はまずお母さんとおばあちゃんが 休憩室でしていた話を千風に話した。 芦熊夫妻が被害届を 取り下げると言っていたあの話だ。 けれど光は両親のやり方は正義じゃないと 思っている。 「とがった耳の男を見つけたら 光は絶対に罪を 償わせようとすると思う」 オドコ会の仲間たちとともに。 オドコ会には 正義があると光は信じているけれど 大勢で犯人をとっちめるやり方は はたして正義なのだろうか。 光は仲間がみんな(ワル)ではないと言うが 萌子には信じられなかった。 (だって、あの山での中学生たちは すごく怖かったもの。 光が止めてくれなかったら、 どうなっていたかわかったもんじゃない) 萌子は自分の心に巣食う不安を 素直に千風に話した。 その時ざわざわと廊下から声が聞こえて、 一座のメンバーが座敷に入ってきた。 その中に小野田もいる。 今日もフードを深くかぶったままだ。 まだうちとけられていないのだろう、 静かに後ろからついてきた。 話を神妙な顔で聞いていた千風は 「その話、また後でな」 萌子にそう言いながら 座長にちょっと頭をさげた。 (ずいぶん他人行儀なんだな) 萌子は思う。 座長は興味ありげに萌子の事を 一瞬見つめたが、 すぐに目をそらして 弁当の前に腰をおろした。 「じゃ、私もう行くね」 萌子は一座のメンバーに会釈をしながら 部屋を出た。背中から、 「おじょうさん、瓶ビール五本持ってきて」 と追いかけるように声がした。  「はあい、ただいま」 萌子は明るく声をはりあげて、 廊下を厨房まで駆けた。 (おっととと。また走っちゃった) と、速度をゆるめたが、 今まで千風と一緒にいたことを思い出すと また心臓がドクドクと高鳴ってきた。 胸いっぱい騒がしかった。 (いつの間にか敬語じゃなくなって、 自然に話せて嬉しかったな。 この不安な気持ちを 打ち明けられて、よかった) その頃、 千風の向かいに座った 座長が言った。 「あの子この旅館の子だろ」 「ああ、そうだけど」 千風は気まずそうに目をそらした。 「やめとけよ」 「え?」 「どうせすぐに ここを出て行くんだしな」 「そんなの言われなくても わかってるよ」 千風が顔をあげると心配そうな 座長の目にぶち当たった。 まるで親みたいな そんな表情に一瞬とまどい、 そのあとすぐに うざったくなった。 千風はいたたまれなくなり、 立ち上がると部屋を出た。 (やっぱりあの人は俺の親父なんだ・・・) 寂しさの潮が引いて、 心が満ちていった。 うっとおしいのに矛盾している。
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