副作用は自己責任で

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 都内のオフィス街の路地裏に、ひっそりと佇む精神科病院にその医者はいた。患者は主に自律神経を拗らせたり、鬱を持った心の不安定さを抱えた者たちだ。定期検診が主となるため、患者はほとんどが常連、シフトのように来院するため顔ぶれは変わらない。  ぐいーっと背伸びをした医者に、看護師が尋ねた。 「今の佐藤さんで最後ですね」 「ああ。彼が来ると一週間が終わったという気になるよ。完治したら僕のルーティンが変わっちゃうな」  医者たるもの、患者の病が治ることは願ってもないことだ。ジョークを混じえて「なんてね」と笑う医者に、看護師は眉をひそめた。 「完治なんてあるんですか、精神病に」 「何を完治とするかによるけどね。傷口が見えないものだから」  だから薬を処方するんだよ、と付け加えて、医者はバックオフィスに戻った。コーヒーを入れて飲むと安堵したように息を吐く。  営業は月曜日から金曜日なので会社員と同じスケジュール感である。華金の波に飲まれて、彼もこれから電車で帰宅しなければならない。  同じくバックオフィスに戻ってきた看護師が締め作業の必要書類を手に取りつつ、未だ質問を続けた。 「佐藤さんに処方してる薬は睡眠薬か何かですか」 「睡眠薬?」 「すみません、最近入ってきたものですから専門知識は皆無で」  看護師の彼女は、先月リクルートサイトで応募してきた中途採用だ。一応、資格は持っているらしいが、精神科医としてはまだ発展途上といったところである。 「睡眠薬ほど強力なものじゃないよ」 「え?でも服用を誤ったら副作用が出るって」 「うん、あれ嘘」  コーヒーをすすり飲みながら当たり前のように言った医者に、看護師は目を見開いた。人の命を預かる人間が、どうどうと嘘を宣言したのである。 「え、は?嘘?」 「嘘だよ。君が今ここで100粒飲んでも害はない代物だ」  医者が自らのデスクの引き出しから取り出したのは、茶色の瓶。中には白い粒がたくさん入っている。 「飲んでみる?」 「…佐藤さんに出しているものですか」 「そうだよ」 「…効能は?」 「うーん、強いて言えばエネルギーチャージ」  それを手に出しながら、看護師に近づいてくる。彼女は一歩後ずさったが、彼が手のひらに出した白い粒を見て、首を傾げた。  見た目は何の変哲もない薬に見える。エネルギーチャージとはどういうことなのか。 「甘いよ」 「っ!まさか、糖!?」 「ピンポーン」  差し出されたそれを医者が自らの口に放り込んだ。ボリボリと砕かれ、ごくんと音を鳴らして、彼の体内へと落ちていく。  唖然と見つめて、看護師はハッとした。 「で、でもそれって虚偽診断ってことになるんじゃ…」 「気づかれなければ平気でしょ」 「でもっ…」 「君はさ、精神病って何なのか考えたことはある?」  至ってシンプルな質問に、看護師は眉間にシワを寄せた。医療従事者なら、病気の根本的なことはある程度学んで患者に接しているはずだ。  専門的なことはまだわからずとも、それが何なのかくらいは彼女だって学んだ覚えがある。その不満さが顔に出ていたからか、医者は乾いた声で笑った。 「机上の知識なんて空論だよ。精神病は目に見えないんだ。骨が変形しているわけでもなければ、傷口から血が出ているわけでもない。どこにガーゼを当てればいいのか、医者は愚か患者本人でさえ分かっていないんだ」 「…だからって」 「だから、あえて傷口を作るんだよ」  目に見えない苦痛で目に見えないストレスを負い、目に見えない何かで突然苦しくなる。平日は泣きそうになりながら仕事をして、休日は楽しみにしていたショッピングさえできずにベッドから動けない。  家族にも相談できず、弱音を吐ける恋人も、理解してくれる友人もいない。ただ苦痛の毎日でどうにか頑張らなければならないと鼓舞し続けるうちに、泣き方さえわからなくなる。とうとう我慢ならなくなってインターネットで検索すると、それっぽい名前の精神病名がヒットする。そういう人間がやって来るのだ。 「ここに来る患者はね、完治を求めてきてる人だけじゃないんだよ。中には、自分の抱えている苦しさが病気だと肯定してほしくて来ている人もいる」 「……」 「だから薬を処方するんだ。薬を飲んでいるから自分は病気なんだ、病気だからこの苦しさは仕方のないことなんだって、少なくとも佐藤さんは思い過ごしてる」 「でも、やっていることは詐欺です」 「君がそう思うならそれでいいんじゃない?"あなたは病気なんかではありません。健康体です。思考のせいで疲れが生じているだけなので気にしないでください"なんて、本当のことを告げて彼が自殺しても、君は罪には問われないだろうし」 「っ、」 「真実で人を救えるほど、世の中甘くないんだよ」  2杯目のコーヒーを注ぎながら、医者は皮肉じみたように笑った。看護師は俯いて、いたたまれなくなったのかバックオフィスから抜け出していく。  医者は自席に戻り、茶色い瓶を引き出しにしまった。中身はブドウ糖、エネルギーチャージのために医者自身が服用している私物である。 「つって、医師免許持ってないから薬処方できないだけなんですけど」  しかし彼女みたいな人間が精神障害を患いやすいということも付け加え、彼は終電近くまで仮眠した。月曜日から金曜日、患者の都合に合わせ、10時から22時まで開院している彼もまた、いささかブラックである。  都内のオフィス街の路地裏に、ひっそりと佇む精神科病院。そこにいるヤブ医者の嘘に救われている人間が、どこかで今も働いているのだろう。 おわり
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