第一章 きゅうりと殺人と時々恋

2/7
前へ
/7ページ
次へ
 七月下旬  先日、大蛇の再封印という大仕事を終えた幽霊係には日常が広がっている。 「春市くーーーん! 俺、今から休みなんですよ! 研究し放題! ちょっと霊力の検査に付き合ってくれませんか! 髪の毛と爪と皮膚をいただければいいので!」  怪奇捜査研究所の近江が白衣をはためかせ、褐色の頬を朱に染め不敵な笑みを浮かべながら、ピンセットを振り上げ幽霊係で活動服をきた警察官を追いかけている。追いかけられている男は春市大和。髪も染めず、セットも寝癖を直す程度。背丈も170cm程度でガタイもいいわけではない、所謂「普通」に分類される男だ。ただ1つ霊力を除いては。霊力は、特殊警察部随一で、透けるはずの幽霊もくっきり見えて生きている人間と見間違えてしまうほど。数ヶ月前、所轄の交番勤務から異動してきた期待の新人は、一つ仕事をおえて戻ってきたばかりだ。汗が首筋を伝いそれを拭く暇も与えられない。 「今戻ったばかりなんですよ! 休ませてください!」  そんな大和を尻目に相棒で狸の源次郎は、「大和、毛の手入れをしておくれ」と換毛期のおわりで、ところどころ長い毛が飛び出ている。 「換毛期ですか、ゲンさん?」  近江の輝く瞳が源次郎に向けられ、源次郎は毛を逆立てデスクの下へ潜り込んだ。 「陰陽師の毛でも構いません。ください!」 「ゲンさーん、たくさん抜けているんだから一本くらいいいでしょう」 「できれば皮膚から20本ほど直接抜いた抜きたてを!」  デスクからひょっこり出ていた鼻がひっこむ。源次郎を引っ張り出そうと身をかがめようとした大和を後ろから誰かが羽交い絞めにする。 「え? なに堺君?」  堺祥真は、大和の1つ下だが特殊警察部所属としては1年上。大和の次に霊力が高く、霊媒師の家系に産まれている。 「怪奇捜査のために抜かれてください。怪奇刑法で裁くための逮捕に必要なんです」  誰かを羽交い絞めにするような男ではないが、怪奇刑法に向けて堺が並々ならぬ期待を抱いていることはみんなが察している。 「そうですよ! 別に個人的な趣味のためではないのです!」 「髪の毛や皮膚で何が分かるんですか!」 「とりあえず今は、髪型で霊力の大きさが変わるか実験中です!」  近江の髪はいつもより短くなっている。 「次は、半分だけ刈ってみようかと思います!」 「外歩けなくなりますよ! とりあえず、昼ごはん食べたいんであとででもいいですか? 霊力使いすぎてへとへとなんですよ」  どこかから小さな声で「封印の仕方がへたくそなのじゃ」と聞こえる。 「ぎゃっ!」  大和は、デスクからはみ出ていたしっぽから毛をむしり取り近江の手に預けると「お引き取りください」と幽霊係のドアを開こうとノブに手をかけた。 「いたッ!」  大和が開けるよりも前に、ドアが開き、大和は頭を打ち付けた。あまりの痛みにしゃがみ込むと、さらに鋭い痛みに襲われる。 「いったあああ! 近江さん!」  近江は嬉しそうに大和と源次郎の毛を掴むと「爪と皮膚をあとでもらいにきます!」とスキップしながら出て行った。ドアを開けた張本人はドアの隙間からしゃがみ込んでいる大和を見下ろしている。 「悪いな。大丈夫か?」  にかっと笑いながら男が大和に手を差し出す。大和は大きな手をとり立ち上がる。警察官の水色のシャツは第三ボタンまであき、アンダーシャツを着ていないせいで逞しい胸板が丸見えだ。 「……大丈夫です」 「どちらさまって顔だな。俺は霊道機動隊の長谷だ。よろしくな。角野さんいるか?」  長谷と自己紹介した男は、ずかずかと入り込み幽霊係を見回す。加々美くらい図体が大きい。丸刈りの頭が、ミラーボールのようにぐるりと一周し、大和と向き合う。 「いねーのか。加々美は?」 「加々美さんは、もうすぐ戻ってきます。一昨日から北海道に出張で」 「なんだあいつ、またマルボウ追っかけてんのか。角野さんは……まああの人は忙しいか、怪奇刑法で」  特殊警察部全体に周知されている怪奇刑法。 「あんたでいいか。名前は?」 「春市です」 「ああ、霊力の強い僕ちゃんか。加々美から聞いているよ。ごくろうさん」  背中をぼんぼん叩かれ、大和は息がつまりかける。
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!

38人が本棚に入れています
本棚に追加