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その日、平嶋の所属するシステム開発部には異様な緊張感が漂っていた。
「おはよーん、ミキちゃ……」
「おはようございます」
いつも軽薄な調子で三木本にからんでいた再雇用社員の根岸は、低い声と鋭い眼光に飛び上がると一目散に平嶋の席にやってきた。
「おい、どういうことだよ!」
「見たとおりですよ」
平嶋は憮然として答えた。指導係として、事前に相談されていなかったことに少々傷ついていた。
「部長の許可はもらってるみたいです」
「そうなの? しかしなんか、労働意欲が削がれちゃうなー」
「根岸さん、それセクハラですよ……」
あからさまな発言に軽蔑の眼を向ける。根岸は肩をすくめた。
「いや、いまさら『女子社員は会社の花』とかいうつもりはないけど? うら若い乙女がわざわざオジサンになりたがるなんて、意味不明だよ。ジジイのおれならまだしも」
高齢者がオジナールをのんでも、今より若い姿にはなれないらしい。老化は不可逆的なものだからとかなんとか、理由はよくわからないが、とにかく若返りの薬としては使えないのだ。
そのため、オジナールの主な服用者は若い世代(特に女性)で占められていた。根岸はそれが解せないらしい。平嶋にだってわからないが。
そこに部長の津山がやってきた。縦にも横にも大柄な体の上に、よく日焼けしたスキンヘッドが載っている。数年前まで工事責任者として現場を飛び回っていた津山は、スーツを着てデスク前に座っていてもゴリラに見えると評判だった。
「……三木本か。本当にやったのか」
「はい」
「ふん。まあ、いいけどな」
津山は自席につくと、部屋の片隅を見上げた。
「おい。そこの蛍光灯、切れてんぞ」
見れば、確かに一本だけ消灯したままの電灯がある。津山の仁王像のようなドングリ眼がオフィスをぐるっと一巡し、平嶋の前でピタリと留まった。
「平嶋、変えとけ」
「ぼくっすか? あ、はい」
いつの間にか席に戻っていた根岸は「よろしくなー」と手を振り、他の社員たちもそれぞれのPCモニタをながめている。平嶋は内心毒づきながら、いつかメモしたはずの管理会社への連絡先を探した。蛍光灯の交換なんて、気づいた人がやればいいじゃねえか……。
「平嶋さん、これ」
四角張った指先が、机の上にネコちゃん柄の付箋を置いた。
「庶務の田中さんの内線番号です。頼めば、すぐに対応してくれますから」
「あ、ありがと」
いつの間にかそばに立っていたオジサン――三木本は、静かにうなずくと席に戻っていった。その広い背中を見送りながら、そう言えばふだん、こういう雑事は三木本がやっていたのだったと思い出す。
津山さん、今日は三木本に言わなかったな。平嶋は思った。自分も、そんなこと思いつきもしなかった。
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