オジサンになれるくすり

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 繁忙期ではないこの時期、夜八時を過ぎて残業する社員はほとんどいない。今日も、システム開発部のオフィスに残っているのは三木本一人だった。平嶋は、買ってきた缶コーヒーの一つを三木本のデスクに置いた。 「ほら、ひと休みしろよ」 「ありがとうございます」  三木本は頭を下げた。平嶋は隣の席に座った。 「見積りってほとんどできてたよな? 今になって、気になるところが?」 「いえ……」三木本は平島から視線をそらすようにうつむくと、コーヒーのプルタブを開けて飲んだ。考えをまとめているのだと察し、平嶋は黙って待った。さらに二口ほどコーヒーを飲んだ三木本は、低い声で言った。 「……私、オジナールのむの、やめます」 「えっ」 「明日、津山部長に相談してからですけど……そう決めました」  突然の心変わりに驚きつつ、意外なことではないのかもしれないと平嶋は思った。三木本の実力は、もうすっかり皆の知るところになっている。再び女性の姿に戻ったところで、その評価はくつがえったりしないだろう。チャラい根岸は再び「ミキちゃん」呼びに戻るかもしれないが。 「でも、佐野さんたちはどうする? 今日あいさつしたばっかりなのに」 「部長にも相談した上で、謝罪しようと思います。……実は、あの会議のときに考えたんです。元の姿に戻ろうって」  三木本はすっきりした表情で言った。 「私、会社で浮いてるっていうか、一人だけお客様扱いされている気がしていて。そんなとき、オジナールのことを知ったんです。のみはじめてからは、物事がうまくいくようになったみたいで……。これまでは、見た目のせいで軽く見られてたんだって思いました」  平嶋は黙っていた。図星をさされ、ぐうの音も出なかった。 「でも今日、少し年上なだけの佐野さんが商談をまとめているのを見て。佐野さんから『頼もしい』って言われて、すごく恥ずかしくなった。一番外見を気にしてたのは、私自身だったんじゃないかって。これからは、素の自分で勝負したいんです」 「そうか……。三木本が決めたことなら、大丈夫だよ」  平嶋が素直にうなずくと、三木本は苦み走った照れ笑いを浮かべた。 「平嶋さんにそう言っていただけると、心強いです」 「おれ?」 「年が近いし、ずっと指導してきてもらいましたから。そういえば、平嶋さんも結構、いじられキャラですよね。オジナールのんでみたらいいかも。人の見る目が変わりますよ」 「……いや、おれはいいよ」  平嶋は断った。オジサンになれば――というか、年を取れば――良くも悪くも、その人の本質が表れるのだろう。三木本は優秀だから、それが良い方に転んだ。だが自分はどうだろうか。「いい年して、こんな事もできないのか」と思われたら、目も当てられない。  おれも頑張らないとな、デキるオジサンになるために。  平嶋は思った。
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