第1話 誘惑のシーズン

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第1話 誘惑のシーズン

 7月下旬、梅雨明けが宣言された東京は、日中には35度に達する猛暑日が続いていた。  夕方になっても暑さは収まらず、都心のオフィス街から続々と帰宅するサラリーマン達は、ハンカチで額の汗を拭いながら近くの駅へとなだれ込んでいた。初瀬栄太朗(はつせ えいたろう)も、髪の毛からしたたり落ちてくる汗を何度も拭きながら駅への道をとぼとぼと歩いていた。信用金庫に勤務している栄太朗は、いつもと変わらぬ白のシャツと折り目の付いたストレートのスラックスに革靴という服装だった。本当ならばもう少しラフな服装を着たいけれど、そんな恰好したら上司からも顧客からも信用を失ってしまう。  会社から外の世界は、解放感に溢れていた。特に今年の夏は毎日のように35度以上の猛暑日が続き、夕方になっても30度を下回らず、女性たちがこぞって肌を見せていた。「Y2Kファッション」という、2000年前後に流行った露出の激しいファッションが再注目されていることも拍車をかけているようだ。  今日も駅のホームで電車を待つ栄太朗の前に、背中を半分近くまで露出した髪の長い女性が立っていた。背中は白くてなめらかで、もし許されるならば触ってしまいたいとまで思いたくなった。おまけに丈の短いショートパンツにヒールの高いサンダルを履き、まるで栄太朗を誘惑しているように感じてしまった。  女性の後ろ姿を食い入るように見ていた栄太朗だったが、たまたま目に入った近くにいる中年女性が訝し気な様子で自分を見ていることに気づき、栄太朗は慌てて真顔に戻り、何事もなかったかのように電車に乗り込んだ。女性は栄太朗の視線に気づいたのか、電車の奥の方まで行ってしまった。  栄太朗は電車を乗り継ぎ、埼玉県さいたま市内にある自宅にたどり着くと、妻の紀子(のりこ)がいそいそと台所から出てきて出迎えてくれた。紀子はこんな暑い日でも半袖のシャツにロングパンツ姿であった。 「ただいま」 「おかえり。ご飯もうすぐできるから待っててね」 「暑くないか? そんな恰好で」 「全然。ずっとクーラー付けてたし」  紀子は気にする様子も無く、涼しい顔で居間の中へと入っていった。居間では息子の慶一郎(けいいちろう)がタブレットで動画を見ながらケラケラと大声で笑っていた。紀子は「笑いすぎだよ、あんた」と慶一郎を叱りつけながら、テーブルを布巾で必死に拭いていた。 「なあ紀子、お前さ、その……」 「どうしたの、突然神妙な顔して」 「そのさ、もっと……肌を露出したらどうだい? こんな記録ずくめの夏なんだ。そんなに肌を隠してたら、クーラー付けていても意味ないんじゃないか」 「アハハハ、大丈夫だよ。私、暑いのは割と平気なんだ」 「でもさ、今の子の流行は、肌というか、背中とか胸とかこう、わーっと露出するのが流行りなんだよ。お前もさ、昔は結構着ていたじゃないか。今もまだタンスに眠ってるんだろ? きっと今でも似合うと思うぞ。トライしてみたらどうだい」  すると紀子は口に手を当てて大笑いしていた。 「ねえ慶一郎、ちょっと聞いていい?」 「何だよ、今面白い所なのに」 「最近、女子の間で肌を露出するファッションって流行ってるの?」 「ああ、そういえばこないだの祭りの時も、女友達が背中やヘソを出した服を着てきたよ」 「昔は私もそういう服を着ていたけど、今も似合うと思う?」  紀子は何気なく尋ねると、慶一郎はタブレットを手にしながらしかめ面をして声を荒げた。 「母さんが着たら友達に爆笑されちまうだろ。体型も俺の友達と全然違うし、顔に皺があるおばさんが着ても興ざめするから、やめといたほうがいいぜ」 「そう言うと思ったよ、アハハハ」  紀子は腰に手を当てて大笑いすると、栄太朗は残念そうな顔で居間を後にした。  自室に戻ると、栄太朗は本棚に仕舞い込んでいた昔のアルバムを取り出した。奥の方のページに、紐が細く肩と胸を大胆に露出したキャミソールを着て微笑む若き日の紀子の姿があった。栄太朗は写真を見ながら大きなため息をついた。思えば付き合っていた当時、紀子の着るキャミソール姿にそそられ、心がときめいたことが、結婚を決めた理由の一つだった。今の紀子は体型も顔も変わってしまったから、この頃と同じ服を着ても似合うかどうかは分からない。けれど、昔の紀子の写真を見るうちに、キャミソール姿の女性に対するあこがれはますます高まっていった。
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