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第11話 あの頃の君のままで
海でのデートから帰った栄太朗は、レンタカーを返却し、ワイシャツとズボンといういつもの通勤着に着替えて自宅に帰った。廊下を通って自分の部屋に戻ろうとしていたが、居間にはまだ薄い明かりがついていた。
居間では紀子が一人、テレビを見ながらビールを飲んでくつろいでいた。
「お帰り、随分遅かったのね」
紀子はもう数年間着続けているピンクのパジャマの上下を羽織り、髪をだらしなくくしゃくしゃにしながら一心不乱に画面を見続けていた。
もう何年間も変わらない紀子の姿……年相応なのかもしれないけど、そんな姿に栄太朗がずっと不満を持っていたのは事実だった。
栄太朗は部屋に戻ると、紀子との思い出が詰まった昔のアルバムを探し出した。何枚かページをめくると、グアムでのバカンスで撮影したと思われる、大きく肩や背中の開いた紺色のキャミソールを着て微笑む写真を発見した。キャミソール姿の紀子は、肉付きが良い健康的な体を惜しげもなく露出し、写真からも十分に色っぽさが伝わってきた。
栄太朗はその写真を取り出すと、そのまま紀子がいる居間へと歩みを進めた。
「紀子、ちょっといいか?」
「なあに?」
栄太朗はアルバムから抜き出した写真をしおんに渡した。
「俺、君のキャミソール姿が好きだった。君がキャミソールを着てめいっぱいの笑顔を見せてくれると、胸が抑えきれない位高鳴ってね。この人と一緒になりたい、大好きだって心から思ったんだ」
紀子は写真を見ながら、栄太朗の様子を訝し気に見つめていた。
「またそんなこと言ってるの? こないだも言ったじゃない。今の私は、もうこの時みたいに若くないし、体型も変わったから無理だって」
「そんなことわかってるよ」
栄太朗は語気を強めて、紀子の顔を見つめた。
「あれからもう十何年も過ぎて、俺も紀子もいい歳になった。当然こんな恰好するのは抵抗があると思う。でもな、紀子のキャミソール姿、もし見ることができるなら、またいつか見てみたいという気持ちもあるんだ」
紀子は写真をじっくり見つめていたが、そのまま何も言わず写真を栄太朗に戻した。
「早く寝なさいよ。今日は疲れたでしょ、こんな遅くまで仕事して」
「ま、まあ……」
本当はしおんとのデートと言いたかったけど、その言葉は胸の奥に仕舞い、一応仕事で疲れた振りをしようと、大きく背伸びをして部屋を出て行った。
紀子に自分の思いが届いてほしいと思い、いちかばちか昔の写真を見せたものの、やはり反応は芳しくなかった。栄太朗は今までになく強く自分の気持ちをつたえたつもりだが、紀子の心に届いている様子は見られなかった。
居間を出ると、栄太朗はがっくりと肩を落とした。そして、ドライブの疲れ、いや、正確にはしおんとのセックスの疲れが今頃になって体全体に押し寄せ、自室に戻るとそのまま寝床に倒れ込んだ。
「しおんさん……」
栄太朗は早く寝ようと思って枕に顔を伏せていると、時折脳裏にしおんのキャミソール姿が浮かびあがり、そのたびに悲しさで胸がいっぱいになった。
一夜明け、栄太朗は家中に響き渡る掃除機の音で目が覚めた。今日は土曜日で仕事が休みということもあり、遅刻を心配する必要もなかった。昨日の疲れは想像以上にひどかったのかもしれない。起き上がった後も、どこか気合が入らなかった。
立ち上がり、廊下に出た栄太朗は、掃除機を動かす紀子とすれ違った。その瞬間、栄太朗は目玉が飛び出しそうになるほど驚いた。
「紀子、お前……」
掃除機を動かす紀子は、ボーダー柄のキャミソールに紺のショートパンツを着ていた。キャミソールは紐が背中で交差するデザインで、背中が半分近く露出していた。前方も大きく開いていて、胸の谷間を惜しげもなく見せていた。
「エヘヘ、久し振りに若い頃着ていたのをタンスの奥から取り出してみたんだ。果たして似合うかどうか、不安があるけどね。でも、今年の夏はいつになく暑いから、涼しくて良いよね、キャミソール」
そう言うと、紀子は再び掃除機を動かしだした。栄太朗はその背後から露出した紀子の肌を見ているうちに、自然と涙が溢れ出した。
「……似合ってるぞ、キャミソール」
「ど、どうしたの? 急に泣き出しちゃって」
紀子は栄太朗の涙声に気づき、心配そうな様子で後ろを振り向いた。
すると栄太朗は、両腕を広げて紀子に駆け寄り、その身体を抱きしめた。
「突然何するのよ? おかしいよ、今日の栄太朗は」
「だって俺……付き合い始めた時、お前のキャミソール姿がすごく綺麗だったから、抱きしめたいって、そして一緒になりたいって思ったんだ。俺、今更ながら、お前を好きになった時の気持ちに気が付いたんだ」
紀子はしばらく唖然としていたが、呆れた様子で「やれやれ」と小声で言うと、「最近タンスの整理をしていて、昔着ていたやつを処分しようとしていたけど、キャミソールだけは何故か捨てられなかったんだよね」と言い、着ていた服の裾をつまんだ。
「あなたに言われてどうして捨てられなかったのか、やっと思い出した。そうだよね、すっごく褒めてくれたもんね。あの時、嬉しくってたまらなかった。今思えば、あの言葉で栄太朗との結婚を決意したのかもね」
紀子はそう言うと、自分の身体を抱きしめていた栄太郎の手を上からそっと握った。
「これからも、ずっと着てほしい。俺は紀子のキャミソールをずっと見つめていたい」
「ヘンなの。ま、栄太朗は昔からそういう変わった趣向があるから、今更驚かないけどさ」
紀子は後ろを振り向くと、栄太朗に向かってウインクした。
「ねえ、今日はこの洋服で二人で買い物に行こうか?」
「い、いいのか?」
「いいわよ」
「本当に……?」
「本当だよ。さ、一緒に行こうよ」
紀子は掃除機を片付けようと、足早に倉庫へと向かっていった。大きく露出したその背中は、年を経ても脂肪が付くこともやせ細ることも無く、綺麗なままであった。
しおんが絞り出すように伝えた言葉が夫婦の気持ちを再び通わせ、失いかけていた紀子への愛おしい気持ちが再び栄太朗の中に戻っていた。
その夜、紀子との買い物を終えて部屋に戻った栄太朗は、ビールを片手にスマートフォンを操作していた。色々な思いがかけめぐる中、しおんへ送るメッセージの内容をどうしようか思案を続けていた。
しおんに対してどうしても御礼を言わずにはいられなかったが、妻の紀子と寄りを戻したことは、栄太朗に好意を寄せるしおんの気持ちを傷つける結果になるかもしれなかった。色々思い悩んだ栄太朗だったが、好意を寄せながらも妻との仲を終始心配してくれたしおんのためにも、御礼はきちんと伝えようと心に決めた。
『こんばんは、しおんさん。今日、妻が昔着ていたキャミソールを十数年ぶりに着てくれたよ。君の言う通り妻とちゃんと向き合って自分の素直な気持ちを話したから、お互いの気持ちが通じ合ったのかもしれない』
メッセ―ジを送った後、しばらくの間何の反応も無かった。「既読」の表示がないので、おそらくメッセージを読んでいない可能性がある。しかし栄太朗はしおんからの返事が来るのを辛抱強く待った。
そして数時間後、日付が変わろうとする頃にやっと「既読」の文字がついた。しおんは栄太郎のメッセージを読んで、どう思っただろうか? 栄太朗はその反応がどうあれしっかり受け止めるつもりでいたが、怖さも感じていた。
その後も栄太朗はしおんからの返信を待ち続けたが、いつまで待っても来る様子はなかった。待ちくたびれた栄太朗は、「俺のバカ、余計なことしなけりゃよかったのに……」とつぶやくと、スマートフォンを手にしたまま部屋の畳の上に横になった。
すでに日付も変わり、眠さをこらえるのは限界まできていた栄太朗は、横になって数分もしないうちに、深い眠りに就いていた。
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