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第12話 ひと夏の冒険が終わる時
9月を迎え、日中はまだ蒸し暑さがあるものの、朝晩は秋風が吹き、徐々に長袖を着る人が増え始めていた。
駅を行き交う女性たちの服装は長袖のシャツが多く、仕事が終わり電車を待つ栄太朗の心はどこか寂しさを感じていた。ほんの数日前までは、ノースリーブの女性が数多く闊歩していたし、キャミソールで背中を大胆に露出させて歩く若い女性もちらほら見かけていたのに。いつまでも暑い季節は続かないということは分かっているけれど、肌を隠す人が増えるにつれ、栄太朗は寂しさのあまり気分がふさぎ込んでいった。
帰りの電車を待つホームで、駅員の喧しいアナウンスに交じり、栄太朗のスマートフォンからの着信音がかすかに聞こえてきた。
「何だろう、紀子かな……」
栄太朗はスマートフォンを取り出し、メッセージを確認した。
『こんばんは、しおんだよ。元気かなー? すっかり涼しくなったから、キャミソールの子が減ってきっと寂しい思いをしてるんじゃないかな』
栄太朗はメッセージに記された「しおん」の名前を見てびっくりした。栄太朗が紀子と再び心が通じ合えたことへの感謝をLINEで伝えて以来、しおんからは全く音沙汰がなかった。栄太朗はあのメッセージのせいでしおんを悲しませ、栄太朗と連絡を取れなくなってしまったのではないかと思っていた。
『久しぶりだね……どうしたの、ずっと連絡が無かったけど』
『ううん、何もないわよ。涼しくなったから、栄太朗さんのタンクトップ姿がもう見られなくなるだろうと思うと、なんだか急に寂しくなって連絡したのよ』
『そうか。そういえばここしばらくタンクトップは着てないや』
『ね、今度私の家に来ない? こないだ買ったタンクトップ着用または持参のうえでね』
『もう、いつもながら勝手だなあ……だったらしおんさんも、ちゃんとキャミソール着るんだぞ』
『もちろんだよん。栄太朗さんのセンサーが振り切れる位セクシーなやつを着て待ってるからね』
しおんの最後のメッセージを読み終えると、栄太朗は驚きのあまり、しばらく心が宙をさまよっているように感じた。今は紀子が時々キャミソールを着てくれるようになったけれど、しなやかで肉厚な体つきのしおんのキャミソール姿には、見ただけで勃起してしまうような艶やかさがあった。許されるならば、またいつかキャミソール姿のしおんを見たいと思っていた栄太朗は、まさかの展開に胸の高鳴りを押さえることができなかった。
数日後、仕事帰りの栄太朗は地下鉄清澄白河駅の前に立っていた。日中は暑かったものの、栄太朗が駅に到着した時には気温が下がり始めており、さすがにタンクトップ姿で歩く勇気も気力もなかった。
ワイシャツの下に、しおんが選んでくれた背中の大きく開いたタンクトップを着込んだ栄太朗は、しおんがやってくるのを今か今かと待ち続けていた。
「こんばんは、ダーリン」
突然誰かが栄太朗の背中をつかんで声をかけてきた。驚いた栄太朗がふりむくと、そこには手を振り微笑むしおんがいた。
今日のしおんはデニムの長袖シャツを羽織っていたが、下着が見えてしまいそうな位の丈の黒いミニスカートをひらひらとはためかせていた。さらに、短いスカートを穿いているにも関わらず、ヒールの高いミュール風のサンダルを履いていた。
「まずいじゃん、そのスカート……おまけにそんなヒールの高いサンダルで。ちょっと風が吹いたら中が見えちまうだろ」
「変に心配しなくていいのよ。好きなんでしょ? こういうの」
「……まあ、嫌いじゃないけど」
「フフフ、素直でよろしい。さ、行くわよ」
しおんは栄太朗を導くかのように先へ先へと歩いていった。案の定、時折吹く秋風がしおんのスカートが揺らし、薄紅色の下着が見えてしまっていた。しかししおんはそんなことは構いもせず、飲食店が並ぶ細い道を進んでいった。
やがて十二階建てのマンションが見えると、しおんは「こっちだよ」とエレベーター乗り場へと手招きした。エレベーターで一気に十階へ向かい、一番奥にある部屋の扉を開くと、そこには見覚えのある風景があった。以前栄太朗が電車の中でしおんに手を掴まれ、無理やり連れて来られた場所だ。
あれは確か、梅雨が明けて一気に暑くなりだした頃のことだった。それからひと夏を越え、二人はお互いの好きなものを告白し、共有し、想いを伝えあい、沢山の思い出を作った。栄太朗のかけがえのない夏の冒険は、この場所から始まったのかもしれない。
「いくら涼しくなったと言え、まだ少し暑いよね。脱いじゃおっと」
しおんはデニムのシャツを脱ぎ捨てると、細かい花柄のキャミソールが姿を現した。胸のあたりに入った深いカットから豊満なバストの谷間を見せつけ、腰のあたりまで大胆に肌を露出した後ろ姿に、栄太朗の心臓は突然高鳴りだした。
「アハハハ、相変わらずね。ここが盛大に膨らんじゃってるよ」
しおんは栄太朗の股間を鷲掴みしながら、大笑いしていた。
「だ、だって……俺……」
「好きなんでしょ? キャミソールが」
しおんはニヤリと笑ってそう言うと、栄太朗は黙って大きく頷いた。
「でもさ、奥さんも着てくれるようになったんだもん、良かったよね。ちゃんと気持ちが通じ合えて」
「ごめんな。そのことだけど、俺、その、本当に申し訳なくてさ」
「何が申し訳ないの?」
「だって……しおんさんを悲しませる結果になっちゃったから」
しおんはしばらく無言で栄太朗を見つめていた。栄太朗は申し訳ない気持ちから、しばらく顔を上げることが出来なかった。
「私、すっごく嬉しかったんだよ。だってさ、栄太朗さんがこのまま奥さんと心が通じ合えず悶々としながら、私みたいにキャミソール着た女を後ろからジロジロと見つめてるの、私、正直心苦しいと思っていたもん。下手したら痴漢扱いされるかもしれないし、考えるだけでもかわいそうだと思ってたから」
しおんはアイスコーヒーを二つのグラスに注ぎ込むと、そっとテーブルの上に置いた。
「でも、あれから返事も何も来なかったから、もう終わりかと思ってたよ」
「まあ、確かにあの時はちょっと悲しかったかな」
しおんは笑いながら髪に手をあてていた。
「ちょうどあのメッセージが来た日、私も淳也に会いに行ったのよ。自分の気持ちをちゃんと伝えたかったから」
栄太朗は驚きのあまり飲んでいたコーヒーが喉の奥に入り、むせりそうになった。
「正直、最初は別れを言うつもりでいたんだ。でも、お互いの気持ちを言い合ってるうちに、気づいたんだ。淳也が私を思う気持ちは、私が考えていたような浅はかな物じゃなかった。私の体が目的で付き合っていたのかと思ってたけど、それだけじゃなくてね、ちゃんと私の実家の親のこととか、私の生活のことや将来のことまで考えていてくれた。いずれマンションを買って、私の親と一緒に暮らすつもりだって」
そう言うと、しおんはちょっとだけ寂しそうな横顔を見せた。
「このことを栄太朗さんに話したら、きっとすごく残念がるだろうって。あれだけあなたのこと『大好き』とか『ダーリン』とか言って、顔中にチュッチュしまくって、身体も交えたのに、それは一体何だったんだよって詰問されたら、何も返せないと思ったんだ」
「だから……ずっとメッセージを返せなかったのか?」
「うん……」
今度はしおんがうつむき、ずっと栄太朗に見せていた顔を伏せてしまった。
無言のまま下を向くしおんを見るに見かねた栄太朗は、着ていたワイシャツを脱ぎ捨て、タンクトップ一枚だけになった。
「顔を上げてごらん、しおんさん」
しおんは栄太朗を見ると、思わず歓声を上げていた。
「約束通り、しおんさんの大好きなタンクトップをちゃんと着て来たぞ」
「わあ、すごくカッコいい! 背中がガッツリ開いてるし、乳首もちょっと見えてるし」
しおんは栄太朗の肩や背中に手を回し、恍惚の表情を見せていた。
「今度は淳也さんにも着てもらえよ。しおんさんが付き合う男ならば、きっとタンクトップが似合うだろうから」
「うん、細マッチョだから似合うはずなんだけど、彼はそんな好きじゃないんだよね。でも、私としてはいつか着てもらいたいから、しぶとくお願いしてみようかな」
しおんはそう言うと、露出した素肌をそっと栄太朗に重ね合わせた。
「でも……やっぱり栄太朗さんのタンクトップが好きかも。とっても似合ってるんだもん」
「俺も、しおんさんのキャミソールが好きだ。背中や胸を目一杯露出して、見るたびに心がときめくんだよね」
「これで見納めになるのは、やっぱり寂しいな……だから、じっくり目に焼き付けておかなくちゃね」
「うん、俺も目に焼き付けて行くよ。これからもずっと忘れないようにね」
重ね合わせた体から、お互いの体温が伝わってきた。露わになった部分をお互いに撫で回し、感触を確かめあっていた。
「ねえ、ちょっと待っててくれるかな」
しおんは体を栄太朗から離すと、化粧台に行き、鏡を見ながら真っ赤な口紅を唇に何度も引いていた。
「どうしたの? 急に化粧なんて……」
「私達は、もう彼氏と彼女の関係じゃないかもしれない。それでも、私は栄太朗さんに対する気持ちをちゃんと伝えたくて……」
そう言うと、しおんは真っ赤な口紅の付いた唇を、栄太朗の頬の真ん中にいやらしい音を立てながら押し当てた。驚いた栄太朗は鏡を見ると、頬を覆い尽くすほど巨大な口紅の跡がくっきりと付いていた。
その後もしおんは何度も何度も唇を顔中に押し当てた。腕を栄太朗の首に回し、ぴったりと体を密着させた。
ようやく口づけが終わった時には、栄太朗の顔はしおんの唇の跡で真っ赤に染まっていた。額、こめかみ、まぶた、鼻、耳たぶ、頬、首筋、そしてタンクトップから露出した乳首にもしおんの唇の跡が残されていた。
「これって、『大好き』の印……だっけ?」
「そうだよ。よく覚えてたね」
「そうなんだ……嬉しいよ。こんなにいっぱい付けてくれて」
栄太朗は、思わず涙ぐんでしまった。
こんなにも自分を好きになってくれたしおんが愛おしくて、でも、叶わぬ恋と思うと、とてつもなく寂しくて。
しおんは泣き出した栄太朗を真上からそっと抱きしめると、こみ上げる涙を何度も拭っていた。彼女もきっと、栄太朗と同じ気持ちなのだろう。
「ねえ、栄太朗さん……ううん、ダーリン」
「なんだい、しおん」
「いっこだけ、わがまま言っていい?」
「ああ、いいよ……」
「最後に……あなたと心行くまで愛し合いたい」
「なんだ。俺もそうしたいと思ってたよ」
「嬉しい……ダーリン、だーいすき」
しおんはうっとりした表情でそのまま栄太朗の唇に重ね合わせた。
深く、長く、口づけを続ける二人。
やがて床には、二人の着ていたキャミソールやタンクトップが音を立てて落ちて行った。重なり合うように床に落ちたキャミソールとタンクトップには、過ぎ去っていく夏と二人の時間を惜しむかのように激しく抱きしめ合った二人の汗が沁み込んでいた。
(おわり)
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