第7話 本当に、俺でいいの?

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第7話 本当に、俺でいいの?

 ウメさんはポケットから自分のスマートフォンを取り出すと、一枚の写真を見せてくれた。 「この人がしおんちゃんの彼氏の淳史(あつし)さん。吉原にいた時のお客さんでね。しおんちゃんが転職する時も色々と力になっていたんだよ」  写真には、しおんと向かい合って座る中年くらいの男性の姿があった。男性はおそらく栄太朗より年下と思われるが、日焼けした顔にきりっとした大きな目と、さっぱりとした細身のスーツ姿が印象的だった。 「ここにもよくしおんちゃんと一緒に食べにきていたんだよ。今日もその人と一緒なのかなと思ったら、違う人だったから『あれ?』と思ったんだよね」 「あの……しおんさんは、その人と今も付き合ってるんでしょうか?」 「さあ、それは知らないわ。でも、ここに来るときはいつも一緒だったわよ。お相手は輸入食品の会社を経営していてね。販路も拡大しているみたいだから、この人とならきっとしおんちゃんも幸せにしてくれるかなって、私も主人も安堵していたのよね。しおんちゃんの実家って母子家庭だからさ。このままゴールインすれば、お母さんを喜ばせてあげられるよねって」  ウメはお盆を手に訥々と話を続けていた。その傍らで、栄太朗は頭を抱えてうつむいていた。 「おーい、ウメさん。あっちのテーブルから注文聞いてきてくれるかな」 「あ、はいはい。行きますよ」  厨房にいる店長らしき男性から声がかかり、ウメは栄太朗の元からそそくさと去っていった。そして、再び入れ替わるようにしおんがトイレから戻ってきた。 「ごめんね、ちょっと長くなっちゃった。あれ? 栄太朗さん、どうしちゃったの?」  うつむく栄太朗に、しおんは何度も手を振った。やがて栄太朗は顔を上げ、憂うつな表情でしおんを見つめた。 「どうしたのよ。さっきまで私のキャミソールを見て嬉しくて興奮してたのに」 「いや、何もないよ……」  やがて二人のテーブルに注文した料理が運ばれてきた。湯気を立てて美味しそうに仕上がった料理を、二人は勢いよく食べ始めた。 「うん。やっぱりこの店の料理の美味しさは変わらないなあ」  しおんは久しぶりに食べた料理に感動しながら口にしていたが、栄太朗は何も言わず黙々と食べ続けていた。 「ねえ栄太朗さん、ちょっと相談があるんだけど」  しおんはスプーンを動かしながら、無口のままの栄太朗に語り掛けた。まさか、さっきウメが話したことを、いよいよ本人が暴露するのだろうか。でも、そのわりにしおんの表情に重苦しさは感じられないのだが……。 「今度さ、二人で休みを合わせて海に行かない? もうすぐ夏が終わっちゃうもん、一度くらいは海に行きたいなって」  栄太朗は驚き、顔を上げた。そこにはいつものように笑顔で語り掛けるしおんがいた。 「しおんさん……」 「なあに?」 「しおんさんには、俺の他に一緒に行くべき人がいるんじゃないか?」 「え? 何よ、突然……」  栄太朗はさっきウメが言ったことをどことなく含ませながら、しおんに問いかけた。しおんはしばらく頬杖をついていたが、やがてクスッと笑うと、 「一緒に行くべき人って、そんなの決まってるじゃん。キャミソール好きのスケベな中年だけど、タンクトップが似合う素直でかわいい栄太朗さんだよ」  そう言うと、しおんはスプーンを持ちながらウインクした。  栄太朗はしおんの言葉を聞き、「本当なんだろうか」と自問自答していた。 「本当に俺でいいのか?」 「うん、私は栄太朗さんと行きたい」  すがるような目で訴えてくるしおんを見て、栄太朗の心は揺らめいた。しかし、その後すぐにウメの言葉が栄太朗の脳裏をかけめぐり、首を左右に振るとその場で立ち上がった。 「気持ちだけありがたくいただくよ。じゃ、今夜は遅いから俺はこれで」 「え? 帰っちゃうの?」  しおんは驚いた様子で栄太朗を見ていた。 「君も明日仕事だろ? 早く帰って寝ろよ。じゃあな」  栄太朗は伝票を持って真っ先にレジに向かった。精算を終えると、しおんの元には戻らずそのまま店を出て行った。 「ちょっと、一体何があったの……?」  しおんは呆然とした様子で店を出て行く栄太朗の背中を見つめていた。 「しおんちゃん。私、キャミソールさんに話したのよ、淳史さんのこと」  しおんは驚き、目を大きく見開いてウメさんを睨みつけた。 「ウメさん、どうして淳史のことを?」 「だって、淳史さんとしおんちゃん、ここに来るときはいつも手を繋いですごく仲が良かったじゃないの。それに、今のあなたがあるのも、淳史さんのおかげじゃないの? 私、今のしおんちゃんを幸せに出来るのは彼しかいないと思うよ」  ウメはしおんをなだめるかのようにゆっくりと語り掛けたが、しおんは椅子から立ち上がり、髪を振り乱しながら栄太朗の後を追いかけた。ビルの階段を下り、人がひっきりなしに行き交う通りを駆け回った。しかし、しおんの眼中に栄太朗の姿がに入ることはなかった。 「いない……どこに行っちゃったんだろ、栄太朗さん」  しおんは息をきらしながら、買い物客でごったがえすアメ横の通りを人を掻き分けながら走り回った。息を切らし、肩を落としたしおんは、スマートフォンを取り出すと、LINEを立ち上げた。そして、自分の思いを何とかして伝えようと、必死に指を動かしてメッセージを打ち込んだ。  しばらくすると、メッセージに「既読」マークが付き、手を叩いて喜んだしおんは上野駅の改札まで必死に走った。その時、丸井上野店から上野駅へと渡る交差点の信号が点滅しはじめたのを目にし、しおんはありったけの力を振り絞って走り出した。このままじゃ、栄太朗に二度と会えなくなってしまう……会ってちゃんと自分の言葉を伝えたい。しおんは一縷の望みをかけて、上野駅の改札へとひた走っていった。次々と改札へ向かう人の波。その真ん中に、見覚えのある中年男性の姿があった。 「栄太朗さん!」  しおんはありったけの声を振り絞った。届かないかもしれないが、それでも声を張り上げた。周りの人達は一斉にしおんに顔を向けたが、しおんは構うことなく、再び栄太朗の名前を叫んだ。  栄太朗はようやく後ろを振り向き、改札へと向かっていた足を止めた。 「しおん……さん?」  しおんは足を止めた栄太朗を見つけると、走ってきた勢いそのままに両手で栄太朗の背中に手を回した。 「栄太朗さん……会えてよかった!」 「な、何だよ。そんなに慌てて」  しおんは栄太朗の肩に手を回したまま、顔をくしゃくしゃにして泣きした。あまりにも唐突なしおんの行動に栄太朗はとまどい、どうして良いか戸惑ったままだった。 「だって、誤解されたまま栄太朗さんとお別れするのは嫌だったから」 「誤解? 何のことだよ」 「ウメさんの話……」 「でも本当なんだろ、彼氏がいるのは」 「うん、本当だよ」 「ほらそうだろ」 「でも、あの人と本気で付き合っていこうなんて、これっぽっちも思ってないから」 「どういう……こと?」 「風俗の仕事をしていた頃、お客さんからの指名が少なくて収入が不安定だったから、無理にシフト入れて自分の身体を酷使したら、心身共にダメになりそうだった……そのことを当時常連だった淳史さんに愚痴ったら、淳史さんは風俗から足を洗って今の仕事に就くまで、色々な面できっちり面倒を見てくれた。彼が私の支えだったのは間違いない。でもね、彼は事あるごとに私の体ばかり求めてくるの。当時彼が常連だった理由は、私の体が好きだったからで、私の気持ちや私という人間を真向から見てくれていなかった。そんな彼が嫌で嫌で仕方が無かったの」 「……」 後ろからは次々と改札へ向かう人波が押し寄せていた。 栄太朗は泣き続けるしおんの髪を撫でると、そっと耳元で呟いた。 「ここじゃ邪魔だろ、こっち来いよ」 しおんは我に返ったのか、首を左右に振って周りを見渡した。栄太朗はしおんの手を引き、券売機近くの壁際に来ると、しおんの髪を何度も撫でた。 「しおんさん……」 「何?」 「一つだけ、聞いていいかい?」 「うん……」 「君は、淳史という男を本当に好きなの?」 「……」  しおんは言葉を濁した。しばらく考えを巡らせながら沈黙していたが、やがて小さく頷くと、栄太朗の目をまっすぐ見つめた。 「……彼にはいっぱい感謝してるけど、本当に心から好きかと言われたら、いまいち自信が無いの」 「そうか。わかったよ」  それだけ言うと、栄太朗はしおんを残して再び改札へと歩きだした。 「ねえ、怒ってる?」 「ううん……『ホントに俺でいいのかな』って思っちゃったんだ。もし淳史という人と付き合ってるなら、そいつと一緒に海に行けばいいんじゃないかって。何で俺と行こうだなんて言うのかなって」  するとしおんはゆっくりと栄太朗の背中を追うように歩きだし、栄太朗の背中に手を置いた。 「だって、私が一緒に海に行きたいのは淳史じゃなく、栄太朗さんだから。これは、嘘のない本当の私の気持ちだから」  しおんはそう言うと、涙を拭いて口元から白い歯を見せた。  栄太朗は改札の前で立ち尽くしながら、微笑むしおんをじっと見つめていた。そして、アメ横の洋服店で買ったタンクトップの入った袋を差し出すと、首を傾げながら問いかけた。 「俺、このタンクトップ……似合うかな?」 「うん。絶対に似合うと思うよ」 「じゃあ、着てみるか。今度、海に行く時に」  そう言うと、栄太朗は額に指をあてながら改札を通過していった。 「栄太朗さん、私、楽しみにしてるからね! きっと栄太朗さんが大喜びしそうなキャミソール着てくるからね! 自分のコレクションの中で一番セクシーなやつだから、きっと栄太朗さんのセンサーがびんびん反応しちゃうかもよ!」  しおんは改札の向こうから大声で叫んでいた。栄太朗はしおんの言葉に応えようと、片手を振ってホームへ歩き去ろうとしたが、周りの客が不審者でも見るかのようにジロジロと栄太朗を見つめていた。 「しおんさん、嬉しいけど……もうちょっと場所と言葉を選べよな」  満面の笑みで手を振るしおんに対し、栄太朗は極まりの悪そうな顔で帰りの電車が待つホームへとそそくさと歩き去った。
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