犬の墓

1/1
15人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ

犬の墓

 昼食がてら、秘書が持ち込んだリストに目を通し、コーヒーを片手に可不可のチェックを記していく。  衣類――可。筆記用具――分解できるものは不可、鉛筆であれば可。酒――可、アルコール度数の高すぎるものは不可。缶コーヒー――不可。ペーパーナイフ――不可。煙草(グネイデン国の銘柄)――可。灰皿――可、ただし金属製のものは不可。  ありきたりな日用品を求めるリストから、自分であれば武器を作れるものは除外していく。  その中に、紛れ込むようにというにはわざとらしく〝ペーパーナイフ〟などと書いているのは反抗なのか、様子でも窺っているのか。  鼻先で笑って不可の印をつけ、そう長くはないリストの続きに目を動かす。  (はし)くれとはいえ政界に加わるようになってから、暇や退屈の類とは無縁だが、この一年ほどの多忙さは、軍部にいたままであれば一生味わわなかったほどだろう。  一世一代、そう呼ぶに相応しい立身のチャンスにかけ、これを成した瞬間になら死んでも構わない覚悟でやっている。  眠っていてすら神経は常に尖り、毎日、些細なことで高揚と緊張が入れ替わり、その薄膜一枚裏には、常に苛立ちが顔を出す機を窺っている。  だが、成功が約束された未来に、苦労や困難を厭うものなどいるだろうか。  答えはもう、決めている。  パソコン――不可。テレビ――不可。新聞――不可。  飲みたい時にコーヒーを飲みたいというのなら、誰か厨房に常駐させるか、と、甘やかすようなことを考えたところで、リストの次項が目に入って、思わず嘲りの笑いが出る。  コンドームと書かれた横に、不要とだけ記し。 「アレクセイ、」  元は軍での部下だった秘書を呼びつけ、リストの最後に書かれている見慣れぬ単語を指で示す。 「知ってるか」 「いいえ……、調べておきます」 「頼む」  そのまま、リストも預けたアレクセイが、すぐに踵を返さず隣に立ったままでいるのに、振り返り。なんだと言う代わりに眉を上げてみせ、促す。  眉間を寄せる代わりのように目を細くする顔を、待ち。 「ルーシャ、あの犬を飼う必要が? 今はお忙しいでしょう。私が代わりに処分を」  ルスランという己の名を、親しく愛称で呼ぶアレクセイの、鋭い目つきを改めて眺める。  アレクセイも自分も、かつては仕掛ける側だった。そのせいで当たり前に盗聴や盗撮を警戒し、聞かれない方がいいことは直接的な表現をしない。  軟禁している男を殺した方がいいと注進するアレクセイに、肩を竦めた。 「うちの犬じゃないからな。今は埋める庭もないし、少し預かってから返す方が簡単だ」  軍の特殊部隊にいた頃と違い、死体の始末を保証してくれる後ろ盾がない。  外国人だから行方不明で済むという見方もあるが、万が一、露見した場合を考えると、自国人よりも厄介だ。  短い間黙ってから「分かりました」と応じて踵を返すアレクセイを、見送らず、職務へと目を戻し。 「アレクセイ」 「はい」 「お前を頼もしく思っている」 「……! はい」  強く答えて部屋を出て行ったアレクセイを見送らない。  なにも嘘ではないが、進言をはねつけたと機嫌を損ねさせてもメリットはない。  意気揚々、と聞こえなくもない、足音が遠ざかるのを聞けば、丸く収まっただろうやりとりはすぐに忘れた。  その、雲のような菌類のような不思議な形のものを受け取り、思わず眉を寄せてしまう。 「医療器具? これがか?」  運転席でハンドルを握るアレクセイが、振り返らず声でうなずく。 「アネロスという、メーカーと同じ商品名で一般に販売流通されていました。勃起不全の治療に使われるそうです」  勃起不全?と、ますます眉根が寄ってしまう。誰が?  あの男――名目だけは知人の所有になっている無駄に広い別荘に閉じ込めている――ミザックにも、もちろん自分も性機能に問題はない。  ではなんのために、と少し思案し、思い当たる。  器具ではなく飲み薬だったが、同じく性機能障害のための錠剤は、より長く、より激しく性交を楽しむために、ずいぶん流行したと聞いたことがあった。  おそらくその辺りか、と見当がついて、呆れる以外の感情はない。  まだ二度寝ただけだが、ミザックがむしろ性的には強い部類であるのは間違いないだろう。  最初の夜から、一回か、張り切っても二回だろうと三包渡したコンドームを、四回目は着けずにしてもいいかと尋ねてきたが、三回で弾切れになった。  残弾を増やして雪辱したいというなら、生憎だ。  三晩目のその夜。  残念だったなと嘲る代わりのように、ご所望のアネロスと、箱で買い与えても、みるみる数を減らすコンドームを、箱をダースで束ねた出荷状態で投げよこしてやった。 「早いな…! ありがとうございます。……あなたが?」  シャツを脱ぎかけている手を止めて、アネロスとコンドームの箱を振ってみせるミザックに、もちろんだと答えかけて、首を横に振り。  金を出したのは自分だが、買いに行ったのは部下だと答える。  自分が子供の頃にも、仲間同士でゲームに負けた者が、性的なものを買いに行くという遊びはあった。  なんだ、などと、それでも無邪気な顔で笑っているミザックに、ティーンエイジャーかこいつと、腹の底から呆れ返る。  ここ、カルドゥワ国ではなく、もっと南の小国グネイデンの人間にしては、この男の顔は目鼻立ちがはっきりしている。  黒い髪にダークブラウンの瞳、少し段のついたアールのある鼻筋。  押し倒され、影を作る面差しを眺める。  色素が濃いせいだろうか、陰影の深い、情深そうな目許。  だが、本人は気づいているのかいないのか、少し厚みのある唇が笑う時、無邪気とは言い切れない色がかすかによぎる。  その唇や指が、衣服をむしりながら器用に肌を這うたび、ゾクゾクと肌の裏にうごめく快感に息を浮かせ。  目を閉じ、腹の中で鼻白む。  そもそも〝こんなこと〟がそれほど上手いこと自体が気持ち悪い。  潤滑ゼリーで濡れた指が肛門を開かせる感覚に、腰が反り、身悶えそうになるのをこらえて、裸足の踵でシーツを掻く。 「――ッ、ク、」  その穴の奥を指でこね回されると唇が震え、指を増やして太くなる圧迫感で出し入れされれば、目がにじむ。  陰茎をしごいて射精を導かれ、指が抜けていって、脱力する。  うわずる息をなだめながら額を擦り、そうだと、思い出して目を上げた。  性機能を増進するという、あの医療器具のことだ。  効能書きを読んだかぎり、性交中に使うよりも普段のケアという方が主眼に思えたが、この手の好色漢ならおそらく、試してみたいと考えるのではないか。  ケツに突っ込みながら自分を犯すのだとしたら、なかなか見物だ。 「――⁉ なッ…⁉」  そんなことを考える目の前で、その無機質な異物が突きつけられる。  右の足だけを折りたたむように、膝頭を深く押し上げられ、開く尻の間にあてがわれる、なめらかで硬い丸み。 「アレ? 買ってくれたってことは使っていいんですよね?」  大丈夫ですか?などと間抜けのような気遣いを見せているが、もう、とっくに気づいている。 「ぅクッ、……! お前が、使うんじゃ、」  亀頭よりもっとつるつるとした先端で穴を撫でられ、勝手に尻が跳ねる。 「俺が使っても面白く、いや、逆に面白いですけど面白くしてもしょうがないでしょ」  ヌルリとなめらかに侵入する、無機質な丸みに、ゾッと総毛立ち。  こちらで用意した脅しに大人しく屈しているが、何も折れてはいない。  この男は、案外根っからのサディストだ。 「――っァ」  一度細くなってまた太くなる。  ゆるやかな波を描いたような形状が、そののんきなカーブを裏切るように、腸管をゴリゴリと嬲る凶暴さ。  グゥ、と、潰れたような呻きが勝手に漏れる。  内側から内臓を押し退けられるような、息苦しさ。  奥へと侵入(はい)られるたび、身を割られるように感じる。  家具の猫足のような奇妙な枝が、股の間に当たって不快感がある。 「――ハ…、」  入りましたよ、と、耳元で囁いて、ゆるめるように横たえさせられ。目を閉じ眉を寄せ、息を逃がしながら、異物感に小さく身悶える。  ガタガタと音がして目を上げれば、ミザックが、鏡台から椅子を運んできて、ベッドの横に腰を据えるのが見えた。  伸びてくる手が、気遣いでもあるように髪を撫でているのが腹立たしい。 「なんだ、これは……」  身体を少し動かすと違和感があって、身じろぎできぬのに薄く苛立ちながら、ミザックの手を払いのける。 「アネロスといって、」 「添付の資料は全て読んだ」  くだらぬ口をきこうとするのを遮れば、眉など上げてみせるツラが太々しい。 「でしたら、それがどうなるのかは、これから分かりますよ」  クソ野郎と口の中にこもらせて罵り、それでも馴染んで小さくなっていく異物感に、細く息を逃がす。  放り出されたままの横臥で身を投げ出し、ミザックの膝が見えるのすら不愉快で、目を閉じる。  視界を遮れば冴える感覚に、尻に硬いものがはさまっているだけでなく、その外で、細い脚というべきか、枝のような部分が股の深いところを押さえているのがうっとうしい。  次第に慣れてリラックスし始めたところへ、最初の波が訪れた。 「――⁉」  快でも不快でもない、尻の中で何か動いたような感覚。  感じたというより、気づいたとでもいうべき、その些細な何かが、いきなりそれを連れてきた。 「ア゛ッ」  ペニスの根のような感覚でもあったし、尻の深いところのようでもあった。  だがそのどちらでもない、〝腹の中〟としか呼びようのない身の内で、何かがいきなり、快感そのものを強く掴んだような。 「アッ⁉ ァ、グ、――ング、ンゥゥゥッ!」 「……さっすが、お上手ですねえ」 「アッ、ァウッ、アアァァッ」  ミザックが何と言ったか分からなかったが、しゃべったというだけで猛烈に腹が立ったような、怒りすら押し退け、額の裏が白く光る。  下半身が、とろけたように甘くしびれている。  絶頂したのか、と脈略のない強い快感に驚愕する、すぐその向こうで、さざ波の悦楽が寄せては返していて。  またすぐに来る、という予感に、ゾッと全身が総毛立った。 「ア゛グッ、ンんグゥゥッッ…!」  それはまるで、繰り返す蜜の高波に、溺れるようだった。  ひっきりなしに訪れる絶頂で下半身が強張るが、苦しみは案外ない。  ハ、ヒ、と情けなく引きつる息が漏れ続けるのは、絶頂のたびに息を吸いすぎるか吐きすぎるかしているせいだろう。 「おっと、」  足掻いて、瀕死の獣のようにつぶれた四つん這いになりながら、この屈辱的な拷問の発生源を取り除こうと、股に伸ばす手をつかんで止められる。 「もう少し、頑張って。というか、意外と平気そうなのがな……」  ああ、殺しておけばよかった、と思う。  この男が何者だろうが何国人だろうが探す人間がいようがいまいが。野良犬のように惨めたらしくブチ殺して、どこでもいい、海にでも森にでもバラバラにして撒いてしまえばよかったのだ。  憎しみなどたやすい。後始末の手間がなければ、殺すことも簡単な話だ。  だが、 「ここの、これが、痛い…ッ」  手を握り込むようなミザックの手を掴み返し、肉をえぐってやろうかと、強く爪を立てて示す。  尻の中にもぐり込んでしまわないためなのだろう、肛門と睾丸の間に食い込んでいるプラスチックの枝が。  ああ、と息をつくような声と、いててと簡単な声で逃れた、ミザックの指がそれを確かめる。 「おかしくはないですけどね。(りき)みすぎかもしれないな。イク時に、こう……」 「――っ、」  腰の裏に掌を置かれ、それだけで顎が上がる。  てのひらの形に、肌に張り付く快楽が、皮膚の中に染みこんでいく。 「イクとこにだけめちゃくちゃ力が入ってるんで、こう……」 「あっ、うッ、」  腰から背中へと逆さに撫で上げられると、わずかに遅れながら、掌を追って快感の波が通っていく。 「あーそうです、それそれ。そうやって、気持ちいいとこに力入れすぎないで、」 「……ハッ…、ァ」  なるほど。  しびれるような感覚とは別のところで、うっとうしいばかりの股の異物に意識が向く。  絶頂にともなって尻が引き締まるせいで器具を引き上げ、その外に引っかかっている枝を食い込ませていたらしい。 「ゥッ、ふ、ぅ、ぅゥ……」  だが、無理矢理に脱力すると快楽は霧散し、不愉快な満たされなさが残る。  わずらわしく背を繰り返し撫でているミザックの手に、ふと、思いついて試みる。 「は、あア、アー――…」  四肢をついた体勢がちょうどよく、筋肉の緊張が盛り上げるオルガズムを、一箇所に留めずに全身に拡散する。 「アっ、あ、ああアァぁぁ……ッ」  甘い、快楽の微電流が、身の深いところから湧き上がり、全身に拡がりながら、雪玉のように増幅して。  全身で、指の先までイク。  絶頂した感覚が鼻先にまとわりついた錯覚が、妙におかしく、それに、身体中に満ちた濃厚なしびれがいつまでも失せず。  自分が驚いているという新鮮な気づきを自覚した辺りで、多分、意識を失った。  ミザックが、まだ寝こけているのを置き去りに、起きて早々にまず、クソ不愉快な性具を打ち捨て、多少はせいせいした気分で仕事へ向かった。  だが。  あれをどうしたのかなどと、ミザックが言い出すことはなく、その理由、目的はあのアネロスそのものではなかったのだと、翌晩には思い知ることになった。 「――⁉」  指を入れられ、少しこねられただけで、ぞわりと鳥肌が立った。  自分の知る尻の穴の感覚とまるで違う。 「ッァ、ク――!」  薄皮一枚の下に、あるべきはずの筋肉は、男の指がこすってあたため、こねて馴染ませるたびに、まるでバターのように柔らかく溶けていく。  拡張と収縮を繰り返し、毎晩のように、マッサージを受けているのだ。筋肉が柔軟になること自体は意外ではない。が。  手の甲を噛んで重い快感をこらえれば、身悶えて首がよじれ、側頭部でシーツを掻く。  けれど筋肉が不能になったのかといえば、そうではない。動くたびに快感を掘り起こす、ミザックの指を追い、吸いついては、悦楽を求めて(うごめ)いているのが判る。  手足すら勝手にじたばたと足掻き、手を取って導かれ、ミザックの首に腕を巻き付け、黒髪を掻き回すようにしてこらえながら、既視感に驚愕した。  勃起したペニスに狭い入り口を押し開かせ、吸いつきながら拡がり、亀頭や陰茎のおうとつにぴったりと添って、なお淫らにうごめいて勃起をしゃぶる粘膜の柔らかさ。  挿入する側でなら何度も味わったことがあるが、それは、肛門や直腸の感触というよりも。 「は……ッ、あ、あア…!」  心地良くて手足に力がこもり、腰回りは脱力する。  尻の穴だけをオンナにするという、現象と方法についての喫驚(きつきよう)。  先端から丸く太った亀頭が急にくびれ、複雑でなだらかなおうとつを持った、陰茎の表面は、脈打つたびに微細な震えを帯びている。  性器の挿入が進んでいくにつれ、受け入れる器官の感触はより鮮やかになる。  熱を持ったペニスで内側をこすり上げられるたび、絶頂に向けて勢いを増しながら快感が波を打つ高揚と恍惚。  無機質な〝器具〟と違って、人体には不快が極めて少なく、五感はたちまち性的な歓びと欲望に、どっぷりと溺れ。  我を失うように、女性化した局部とそれを満たす男の身体をむさぼり、オルガズムを楽しんで。  視覚に焼き付きそうな、美しい天井の模様。  それを無為に目で追う朦朧とした頭で、思い出す。  軍にいた頃、暴力での支配と被支配だけでなく、一種奇妙な気高さのようなふりで、不思議とどの隊の中にもあった男同士の性行為。  乞われたり強要されたりして下側の役目を引き受け、逆はどうなんだと興味を持って、今度は同じことを別の同僚に押しつけたりと、何度かは試してみたが。  これの何がそんなに面白いんだ、という以上の感想は持ったことがなかった。  性器は言わずもがな、肛門が何故快感を得られるのかも、生物学で説明できることでしかない。  上に乗られたところで、うっとうしい鼻息と、正直に答えれば殴られるくらいかしかないだろう「どうだ?」とでも言わんばかりの、うんざりするような、中身のない自信満々のツラを見るばかりだ。  別の誰かを組み敷いたところで、それが女相手より面白いとは、今でも到底思えない。  だが。  理性どころか、もう意識も届かぬようなところで、ミザックのするそれを〝もっと〟と求め、両手で尻を掴んで、開いた脚の間へと引き寄せる。  ああ知らなかった。世の中にこれほど気持ちのいいことがあったとは。  なんということだろうか。尻の穴でするセックスが大好きだ。  そうして、目を覚ましてミザックの間抜けな寝顔を見下ろしながら、自分に呆れ。だが、大いに驚く。  意思と意識が自分の手に戻ってくれば、尻の穴でするセックスが好きだと思ったことすら、信じがたい。  寝るなら女を抱く方がいいに決まっている。  だが、と湧いてくる高揚に、くせで口許を隠し。  これは案外面白いことだ。  身体の感覚が、ここまで意識を浸食するものか。  人間が痛みや苦痛、それに恐怖には、普段想像もしないほど弱いのは知っているが。  この、黒髪の外国人の方は、何を感じているだろうか。変態だということを除いても、あれほど面倒な手間をかけて性交なんぞにいそしむというのは、どういう感覚なのだろう。  自分が今まで考えていたよりももっと、人間の心や意思は、外部から変えることができるのかもしれない。  庭に墓をつくるのは、もう少し先に延ばしてもいいだろう。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!