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プロローグ
そこは、太平洋側の海沿いの街。
浜辺に沿った外環道の脇に立ち並ぶ、くっついたように連なった建物の一番端っこにそのお店はある。
いかにも昭和の香りが漂う、海風に毎日吹かれ続けたひさし。錆があちこちにあるのだが、どの店もレトロ感があって味わい深い。
同じ規格、同じような外観の建物は縦長で奥に長い。いわゆる、長屋のような造りになっていた。
お土産物屋やお食事処といった店は、日没と同時に暖簾を下げる。
しかし、角の店は夕方から看板のあかりがともり、一番星がまたたく時間から営業を開始する。
――海街喫茶『はぐれ猫亭』。
今日も、レトロな文字で書かれた小さな看板が点灯し、店内のオレンジ色の照明がともされた。
チリンチリンと鈴の音を鳴らしながら、扉が内側から開く。
中から出てきたのは、くりっとした目が印象的な童顔の青年だ。彼は海に夕日が沈みゆくさまをちらりと確認しながら、辺りの様子を窺った。
「二週間か……」
彼がこの店で働き始めて、それだけの時間があっという間に過ぎていた。
感慨深い気持ちになりながら海をじっと見つめていると、海辺を所在なく歩いていた自分が夢だったのではないかなんて錯覚に陥りそうになる。
あの頃の亡霊のような自分はもういない。
「おーい、夜空くん」
名前を呼ばれて、童顔の青年は室内に戻った。振り返ると、立派な素材の木でできたカウンターの向こうから、背の高い青年がニコニコ笑いかけてくる。
少し癖のある長い髪の毛を無造作に括り直しているのは、この店のマスターである善だ。凛々しい眉毛が印象的だが、表情は菩薩のように柔和だ。
空っぽの入れ物のようになっていた夜空は、はぐれ猫亭の主である善に拾ってもらった。
「夜空くん。お客さん、今日は来そう?」
「そうですね。今日は……たくさん来ると思います」
夜空が直感を答えると、じゃあもっと食材を準備しなくっちゃと善はなんだか嬉しそうにしている。
三十手前のまだ若いマスターだが、年齢に似合わない仙人みたいな雰囲気の人物だ。夜空は善に近づくと、ぺこっと頭を下げた。
「善さん、今日もよろしくお願いします!」
「こちらこそよろしくね」
二人でお辞儀をしあって、開店準備をはじめる。まもなくこの『はぐれ猫亭』に、一番乗りのお客さんが来る。
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