唯一の安らげる場所

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唯一の安らげる場所

 昭和の終わりの頃。英子はもう進学する大学も決まって、比較的のんびりできる時期だった。  そう。普通の生徒なら。    英子はスポーツ推薦で大学が決まっていた。つまり、推薦されている卓球は当然練習しなければいけなかった。だが、中学生のころに負った膝のケガの検査をようやく、先日の国民体育大会の優勝後にしてもらったばかりだった。  検査と言っても膝の上と下の二か所を切り関節鏡を入れて久の内部を見ると言う、小さな手術のような検査だった。  今でこそ、CTやMRIで身体内部の損傷も詳しくわかる時代になったが、その頃にはまだ、そういった直接見る方法での検査が当たり前だった。  入院は一日だったが、抜糸するまで膝が曲げられないようにしっかりと包帯をされ、退院してきた。  抜糸までの2週間。英子は練習を休んで良いことになったのだ。  その頃、クラスにもあまりいなかった友人に誘われて行ったのが小さな喫茶店『風(フウ)』だった。  夜はお酒も出して、結構賑やかに楽器などもやる人が集まるお店らしい。でも、電車もない田舎の小さな町のその喫茶店は田んぼの真ん中の農機具を入れる倉庫を簡単に補強した程度の作りで、それでも、きちんと喫茶店らしく、可愛い木のドアと、カウンター、狭いながらもシンクがあって、シンクの後ろにはソーサーやカップがきちんと並んでいた。  お酒は夜以外は出さないけれど、昼間は夜の準備の間だけ店を開け、行き場所のない高校生の知り合いが少しだけ来るお店だった。  英子の家でも喫茶店を経営していたが、そこは父の教え子がやっているとはいえ、自宅と一続きでとても自由を満喫できる場所ではなかった。  学校が終ると英子は自分の心の中で『そうだ。今日も風に行こう』と、思い、憑りつかれたように風に通った。  自宅からは徒歩7分ほど。田んぼの中のあぜ道を通って『風』に向かう。  特に親の了承が必要とは思っていなかった。父は卓球以外興味がないので、練習が休みの英子のこと等気にもかけない。  母は父に任された小料理屋が忙しいし、疲れているので英子が放課後のそのほんの少しの時間どこにいようと、やはり気にもかけなかった。  英子自身も、『風』に行かれるのはこの2週間だけと分かって通っていた。  いつもカウンターに座り、マスターの作るココアを美味しくいただき、黙ってゆっくりと1時間半ほどすごすのだった。    ここでは、国体優勝の話も、卓球の話も、実家のお店の話も出ない。    英子が英子でいられる空間だったのだ。  通っていた毎日は、ほとんど黙ったままカウンターに座って時間を過ごした。でも、 『まだ明るいうちに帰りな』  と、お酒を出す時間になる前に追い出されてしまうのだ。  そのあたりは若いけれど、きちんとしているマスターだった。  ところが、田舎は人の口がどこからか噂を広める。  『風』に配達に来た酒屋のおじちゃんが、母に英子が『風』にいることを話してしまった。酒屋のおじちゃんにしてみると、『風』はお酒を出す場所で、大学まで決まって、全国一位になった英子がいるべき場所ではない。というようなことを母親に行ったらしい。  英子の母親は気の強い人で、自分が知らないことを、それも自分の娘の事をよその人の口から聞いたことが許せなかった。  もちろん『風』の実体も知らない。英子がお酒を出す店に行っていると、鵜呑みにしてしまった。    英子が、 『そろそろ練習にも出なきゃいけないしこれで、『風』にくるのも最後かなぁ。』  なんて話を『風』のマスターとしていたその日の夕方。    英子の母親がすごい剣幕で『風』に乗り込んできた。 「英子!帰るよ。大体このお店もこんな子供を店にいさせるなんておかしい!非常識だ!」  と、マスターを怒鳴りつけると英子の手を掴んで帰ろうとした。 「ちょっと待って。お金払うから。」  英子はやっとそれだけ言うと、マスターに 「本当に失礼でごめんなさい。2週間ありがとう。」  と、言うと、後は待ったなしの母親に連れられて家まで帰った。  家に帰ってから英子は 「私があのお店に行っていたのは練習が休める間だけだし、お酒を出さない時間だけだよ。非常識なのはお母さんだと思う。」  と、めったに口答えしないのだが、その時ばかりは英子も母を許せずに口答えをした。  少し冷静になった母は、それでも、気の強さから自分の非を認めずに 「だいたい、お母さんに内緒であんな店に行くからいけない。」  と、更に言い返してきた。  もう、それ以上は何を言っても無駄なので、英子はそれきり『風』の話を出さなかった。 **********  還暦を迎えた今年、昔の事を思い出した英子は、心に封じ込めていたあの自分だけの時間を持てた2週間を思い出す。 『そうだ。風に行こう。』  自分の心の中で自分に呼びかけたあの魔法の言葉。  何のしがらみもなく、自分を本当の自分でいさせてくれたあの空間。  父が監督という環境で苦しい毎日を忘れさせてくれたあの検査入院の後のひと時を、もう今は何もしなくてよくなった今、思い出す。  『風』にいる時間がなかったら、英子は推薦で決まっていた大学進学を辞めていたかもしれない。それくらい煮詰まっていた心を解放してくれたのは、知っていても何も聞かないでカウンターに座らせてくれた『風』のマスターのおかげだと思っている。  人生の中のほんの2週間。宝石のような時間だった『風』で過した時間。 『そうだ。風に行こう。』  とっくになくなっているあの店を心のよりどころにしていた、心がスカスカだった昔。  あんなに心がスカスカなのはもうごめんだが、心から行ってみたいと思うお店がないのも寂しいものだと今は、思うのだ。 【了】    
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