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 雨に打たれたのは時間にして数分だったように思うけど、近くの軒先でハンカチを探す間に、服や髪から滴り落ちる雫で足元には水たまりができるほどには見事に濡れきってしまった。ため息も逃げ出すほどの雨にほとほと参った時、彼の家がここから近いことを思い出した。  付き合って8年になる彼とは同棲とまでは行かずとも、お互いの家の合鍵を持っていて、家の中にはしばらく居座れるほどの日用品を置いている。  だからほんとに、軽い気持ちだった。  彼が不在のときに合鍵を使ったことなんて今までにもあったし、今回みたいな不測の事態に着替えを取りに来たことだってある。  だから今日もあまやどりさせてもらってあわよくば、今日は金曜日で、明日はお互い仕事が休みなんだし、そのまま泊まって、あぁこの前彼と一緒に買ったワインなんてあけちゃって、今日の雨にはびっくりしたね〜なんて些細な日常の不幸を笑って、そんな一日になればいいなんて思っていたのは事実だった。  玄関には見慣れないヒールの高い靴と彼の質のいい革靴が水たまりをつくっていて、あぁ彼も同じこの雨の被害者だったかなんて過るほどには現実を受け入れていた。  彼の家というこの場にそぐわない見知らぬ女の子が目を見開いて私を見つめていることも、その手には彼の品のいいワイシャツが握りこまれていることも、その後ろからはシャワーの音が鳴り響いている現実も、ひどく冷静に頭の裏の裏の引き出しにしっかりと保存されてしまった。  研ぎ澄まされた聴覚は閉まったはずの玄関扉の奥から聞こえる雨の音を拾って、その音は彼との思い出が詰まった記憶の引き出しを無作法に開けまくって、特に整理されていたわけでもない頭の中を静かに、そして激しくかき乱した。 ーガチャー 「どうしましたか?そんなとこで立ち止まって…っ!」  雨の音はクリアに拾う耳は、シャワーの音が止まったことには気が付かなかったらしい。シャワールームからはほんのり顔を赤らめた彼が部屋着を纏って出てきた。ワイシャツをいまだに強く握りしめる彼女に声をかけ、その視線の先に私がいることを確認するや否や、今度は顔を青くしてこちらへやってくる。 「違います!あなたは今誤解している。弁解をさせてください」  何事も冷静に卒なくこなす彼がすごく慌てていることは情報として視覚から入手できたけれど、耳の方は相変わらず雨の音しか拾わなくて、赤くなったり青くなったり忙しないなぁとか、そんなに握りしめたらワイシャツにシワが寄るなぁとか、彼の着ている部屋着はこの前一緒に買い物に行ったときに買ったやつだねとか、あぁそうだその時に私の分もお揃いで買ったよね、など一気に頭の中を駆け巡った。  彼はまだ真剣な表情で私に語りかけていて、あの、とりあえず着替えさせてほしい、だなんて言ったらさすがに場違いかなぁ、なんてことも考えていた。
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