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そうだ!地獄へ行こう
僕の全身は長年の睡眠薬や鎮痛剤でボロボロに崩れかけていた。
のみならず脳髄に至るまで、もはや溶け出していたかも知れぬ。
『歯車』は閃輝暗転という病気が元になっている話だと評されたが、その病気に罹っている人間の誰もが僕と同じ苦しみを抱くものでもあるまい。
そもそも僕の苦しみは、瞼の裏に閃光が煌く以前から、上手く噛み合わない歯車の如く、僕の頭蓋骨の中でギシギシと激しく軋んでいた。
寿陵余子の話を例に出したように、僕は、芸術家として作風を模索していた事は事実であるが、それは単に作風の模索ではなく、生きるために一歩一歩進む方向そのものを模索していたのである。
肉体的には、もはや死に直面していながら、身体の奥底にかろうじて浮遊する魂が、この世に居続ける確かな手掛かりになるものを、必死に手繰り寄せようとしていた。
それこそが、ギシギシと軋みながらでも、確かな動力で僕を突き動かす歯車だった。
『河童』は、もう僕のありのままの願望と不安とを心のままに放出した、僕自身の姿である。
あの中に出てくる河童の一人一人は、すべて僕自身であり、あの世界の楽しさも苦しさも不条理も美しさも、すべて僕の都合の良い妄想である。
当時、僕はもう一歩たりとも前に進めないほど神経も全身も衰弱していた。
だからせめて物語の中で、渡れない世の中を渡ろうと試みた。
その結果、僕はもはや妄想の世界でさえ、どうにも世の中を渡れないところまで脳神経が干上がっていた。
河童になってさえ、頭の皿が干からびていることに気づいてしまったのである。
『或阿呆の一生』は、五十一の『敗北』まで、すべてが人生折々の回想の断片である。
もはや、僕が起きていられる時間は長くて一時間というところまで全身衰弱していたのだから、あんな形式でしか書くことが出来なかった。
それでもまだ僕は、かろうじて作家だった。
最後の最後まで僕は作家であろうとした。
だが、既に目は霞み手は震え、涎さえ垂れ流していた。
こんな見苦しい身体で生きさらばえても、誰のためにもなりはしない。
もはや魂さえ浮き上がりかけた脳髄で、僕は決心を固めた。
『そうだ!地獄へ行こう』
僕が生涯をかけて愛した文ちゃんと、結婚の約束をしてから、僕は『地獄変』を書いた。
こんな男を愛せるのかと、半ば脅迫じみた、僕の未来像を描き出して見せつけてみたのだ。
究極の、死と隣り合わせの愛を、僕は心のどこかで予感していた。
文ちゃんは、学校を卒業する前に、急いで、そんな僕のところへ嫁に来てくれた。炎が燃え盛る牛車の中へ、笑顔で飛び込んでくれたのだ。
僕は、どんなに嬉しかっただろう。
この美しい愛に燃える文ちゃんを、決して苦しめてはならない。
そう何度、心に誓ったことだろう。
人生は、あっという間に過ぎ行き、目の前で燃え盛る牛車は、いよいよ火勢を強めた。
その顛末を、僕は筆力の限りを尽くし、数々の作品として描き上げてきた。
だが、最後の最後。
もはや牛車が舞い狂う無数の火の粉と共に崩れ落ちる直前。
僕は、全身全霊の力を振り絞って文ちゃんを牛車から引き摺り下ろした。
文ちゃんと三人の息子たちには幸せになってほしい。
今こそ、僕自身が、その燃え盛る炎の中へ身を投じる時が来たのだ!
僕がして来た、ありとあらゆる卑しく心寒い所作を、跡形もなく燃やし尽くすのだ。
僕が地獄へ堕ちる事で、遺せるものすべてを浄化させるのだ。
正統な文化人としての清らかな文字たちを汚さぬために。
プロレタリアでもブルジョアでもない、ただ一人の素朴な父としての影を正しく遺すために。
芸術をこよなく愛したけれど、それ以上に深く人間を愛した一人の男として潔くあるために。
人生そのものを一つの芸術作品として仕上げる芸術家の終末に相応しい輝ける英断として。
『そうだ!地獄へ行こう』
その決意は、百年後の僕を、一番、僕らしく生かし続けてくれる美しい選択に違いない。
僕は、生き地獄にいる家族を愛すればこそ、本気で地獄へ行くことを決めた。
愛のために。
僕は薬の力を借りて、地獄へと続く蜘蛛の糸を手繰り、静かに厳かに、真っ暗な地獄へと降りて行こう。
完
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