最終話 特別な気持ちの正体

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 「箱根に行ったとき、会った女性覚えてる?」  「……はい」  もちろん、覚えている。  覚えているどころではない。  誰が見ても千紘さんと血縁関係であろう50代くらいの女性。  女性は千紘さんの名前を切なそうに呼び掛けたのに、彼はそれを無視したのだ。  「まさかあんな場所で会うなんて、驚いた……最後に会ってから20年くらい経ってるから……」  「……」  「気づいたかもしれないけど。あの人ね、僕の母親なんだ」  「……そう、だったんですね」  なんとなく、そうじゃないかと思っていた。  そうでなければ不自然なほど彼女と千紘さんはよく似ていたから。  「うちの父さんね、昔飲食店を経営していたんだ」  千紘さんは淡々と自分の過去を話し始める。  「結構大きい会社だったんだけど、僕が小学生になってから経営が傾きかけて……大変な時期が何年か続いたんだ」  千紘さんがスムーズに話せるように、声は出さずに相槌をうつことにした。  「父さんは会社に泊まり込んで、家にも帰ってこれない日が続いて……寂しかったけど、子どもなりに父さんが大変なことも辛いこともわかってたから、今だけだって思って耐えてた」  千紘さんはきっと、その頃から聞き分けの良い子どもだったんだろうな。  いくら事情が事情とはいえ、小学生なのに寂しい気持ちをこらえて、親のことを理解しようとするなんて、簡単にできることじゃないのに……。  「でもね……彼女は、母親は耐えられなかった」  〈彼女〉と言った千紘さんの声はとても他人行儀で、説明とはいえ〈母親〉と言うことを嫌悪しているように感じた。  「父親が奔走している間に、他の男で寂しさを埋めていた」  憎しみ悲しみも、怒りもない。無感情の言葉に、彼の心に刻まれ深い傷を感じた。  「僕はその時10歳で、まだ幼かったとはいえ物事も理解できていた。だから彼女のしたことも子どもながらにわかってた」  10歳は子どもだけど子どもじゃない。  自分の意思もあって、周りのことも見えていて、物事の分別もついてきている年頃だ。  千紘さんなら普通の10歳よりももっと大人びていたかもしれない。  「色んな感情が溢れたけど、一番大きかったのは……軽蔑だったな」  千紘さんの母親がどんな人かは私にはわからない。  だけどあの日、千紘さんを映した彼女の目は、千紘さんを愛しているように見えた。夫婦関係はわからないけど、実際に、千紘さんのことを愛してたんだと思う。  千紘さんもお母さんが大好きで、お母さんも千紘さんが大好きで……それなのに、そんなお母さんを軽蔑する状況なんて……想像だけでも、辛すぎる。  「一度の過ちで、父さんも彼女をそうさせた責任は自分にもあると言って……夫婦関係は修復しようとしていた。でも……僕は許せなかった。今までのように接することができなかった……彼女が気持ち悪くて仕方なかった」  当時の千紘さんの気持ちを思うと、胸が苦しくなる。  10歳という年齢で、どれほど葛藤したのだろう。  お母さんのことは好きなのに、軽蔑してしまう気持ちが消えない。  父親は許しているのに、自分は許せない。  千紘さんのことだから、もしかしたら、そういう自分も許せなくて苦しんだのかもしれない。  「僕が彼女をどうしても受け入れられなくて。結局、二人は離婚した」  「……」
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