第四話 仮の恋人のはじまり

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 洗い物を終えて、そそくさとダイニングテーブルに戻ろうとした私を、千紘さんが引き止める。  「ちょっと待って、泡ついてる」  「えっ、どこですか?」  勢いよく洗いすぎて泡が飛んでしまったのだろう。  顔をぺたぺた触って泡を探す。  「じっとしてて」  千紘さんに言われるまま、直立不動でその場で固まった。  体を屈めた千紘さんが私に近づいてきて、思わずぎゅっと目を閉じた。  なんか、緊張する。  泡、とれたかな……。    しびれをきらして閉じていた目をぱちっと開けると、すぐ目の前に千紘さんの顔があって思わず身を引いた。  「わわっ」  き、綺麗すぎる。  これは、ある種の顔面凶器だ。  女性が執拗に声をかけてしまうのも納得できる。  女性も、きっと男性も、魅入ってしまうほど、千紘さんは本当に綺麗な人だから。  「はい、とれたよ」  千紘さんは自分のハンカチで私の頬の後ろについていた泡をそっと拭き取ってくれた。  「あ、ありがとうございます」  キッチンカウンターに背中を張り付けたまま、微動だにしない私に、千紘さんが困ったような顔をする。  「そんなに警戒しないで」  「へっ?」  けいかい?  軽快はしていいことだから。  まさか、警戒?  私が千紘さんに対して警戒すると?   「乃々花ちゃんは僕の恋人だけど、仮だから。君が怖がるようなことはしないよ」  千紘さんの顔面どアップの美しさに耐えきれなくて後ずさったことを、何か別のことと勘違いされたのだろうか。  千紘さんを警戒して避けたと思われたということ?  風太郎が知らない人を怖がって逃げるように?  私が千紘さんから怖くて逃げたと思ったの?  神様のように優しい心を持つ千紘さんを警戒するなんて、天地がひっくりかえってもない。  私から離れていく千紘さんの背中が、どことなく悲しそうに見えて、胸がきゅっと切なくなった。
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