第五話 大人な彼の意外な一面

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 自分の無神経さにショックを受けていると、「乃々花ちゃんに」と、千紘さんの静かなつぶやきが聞こえた気がした。  だけどよく聞こえなくて「えっ?」と耳を傾けると、今度ははっきりと聞こえた。  「乃々花ちゃんに触りたくなる」  「…………へっ?」  予想もしていなかった返事に、私の頭は宇宙へ旅立った。  無重力空間の中に、〈触りたくなる〉の文字がぷかぷかと浮いている。  耐えていたこと=触りたくなること。  千紘さんは、私を張り倒してお説教したかったのではなく、触りたかったのか。  私の頭はそこで地球に戻り、東京に降り立った。  「いいですよ」  「……はっ?」  「触ってもいいですよ」  何をためらっていたかと思えば、そんなことだったのか。  嫌な気持ち? 軽蔑?  そんな気持ちは微塵も生まれてこない。  千紘さんは神様みたいに優しくて、意外と強引なところがあると思いきや、人に触れることをためらうほど繊細な心の持ち主のようだ。    ちょっと風太郎に似ている。  風太郎は、人間とは一定の距離を保っているくせに、本当はすごく甘えん坊。  でも、上手に甘えることができなくて、一人でいるのが好きなのかなと思われてしまう。  『しっかりしているように見えるけど、人に弱味を見せれないだけで、本当は寂しがりなんだよ』  『甘えたい時期に甘えられなかったせいで、なんでも一人でできるようになってしまったけど……一人が好きなわけではないんだ』  倉木さんもそう言ってた。  先週、後ろから抱きついてしまった時も、離さないでほしいと言われたし。  もしかして、千紘さんも風太郎と同じなのかな。    私は席から立ち上がって千紘さんのそばまで近づくと、うつむきがちの千紘さんの不安を包み込むように、千紘さんを抱きしめた。  今度は後ろからではなく、正面から。
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