第七話 いちばんが欲しい

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 かばんから手帳を取り出して新たなスケジュールを書き込んでいると、カチャという脱衣所のドアが開く音がした。  「あ、お風呂どうでした?」  まだ濡れた髪のまま、首にタオルを掛けた千紘さんがリビングに戻ってきた。  「……あー……うん。良かったよ。すごく」  「そうでしたか」  気のせいか、千紘さんの元気がない。  視線を落としたままぼーっとソファに座り込んでしまった。  もしかして、のぼせちゃったのかな……。  「お水持ってきましょうか?」  「いや、大丈夫だよ。乃々花ちゃんも入っておいで」  「ぁ、はい」  千紘さんの様子が気になったけど、なんとなくそれ以上声をかけてほしくなさそうに見えて、私は千紘さんに言われるままお風呂に向かった。  内風呂のガラス戸の向こうに露天風呂がある。  「わぁ」  外はライトアップされており、白い湯気がゆらゆらと立っていた。  内風呂も十分な広さがあって入らないのはもったいないけど、長い時間お風呂に入るとすぐにのぼせてしまうから今回は露天風呂だけ。  しっかり体を洗って外に出ると、冷気が素肌を撫でてきて、ぶるっとした。  転ばないように足元に注意しながら、お湯の中に体を鎮める。  「……ふあぁ~」  温泉に入ると、無意識に声が出てしまうのはなぜだろう。  力の抜けた、ふにゃふにゃの声。  少し熱めの湯が、外の冷気で冷えた素肌をじわじわと温めていく。  体と一緒に心もほぐれていくのがわかる。  「……極楽だぁ~」  幸せだなぁ……。  美味しいものたくさん食べて、お部屋でごろごろして、温泉に入って……。  一人で箱根に来たときも楽しかったけど、千紘さんと一緒に来た今日の方がずっと楽しい。  自分の心のままに行動していたから、他人と一緒だったのに、気疲れもない。  千紘さんが、そのままの私でいいと言ってくれたから。  ただただ楽しくて、幸せな時間だった。  千紘さんには感謝しかない。  「う~ん……」  やっぱり何かお返しをできないかな。  女性に慣れるために仮の恋人でいることがお礼では足りない気がする。  千紘さんに対するお礼なのに、私の方が良い思いをしている。  美味しいものを食べさせてもらって、楽しい時間をもらって。これではお礼にならない。  とはいえ、自分にできることを考えても、なにも思い浮かばない。  千紘さんのように、すべて手に入れたような人に渡せるお礼など……考えても、思いつかなかった。  「……うーん」  だめだ、のぼせそう。  お風呂で考え事はしちゃいけない。  頭がパンクする前に、露天風呂から上がった。  髪の毛を乾かして化粧水を塗る頃には、体の熱も落ち着いていた。
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