第八話 ファーストキス

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 千紘さんの家にお邪魔するのはこれで二回目。  初めて助けてもらった日以来、うちに来てもらうことはあっても千紘さんの家に来ることはなかった。  だから、真正面から要塞のような家を見るのは初めてで、改めてその大きさに圧倒された。  「こっちのエレベーターが父さんの住む場所に繋がってるんだよ」  リビングに向かうためのエレベーターに乗る前に、千紘さんが少し離れた場所にあるもう一つのエレベーターを指して教えてくれた。  「そうなんですね」  地下駐車場は共有で、そこから先は別々の暮らしというわけだ。  「家を建てる時、僕は二世帯にしなくてもいいんじゃないかって言ったんだけど、父さんの方から生活スタイルも違うしいつか世帯を持つようになった時のためにこの方がいいって言われてね」  「なるほど……」  仕事の時間もきっちり決めて、会社勤めのような規則正しい生活をしている千紘さんでも、突然インスピレーションが湧いて作業してしまう時もあるらしい。  私も鎌倉に家を建てた時、母と暮らすことも考えたけど、今にして思えばこの仕事をしている限り普通の生活をしている人と暮らすなんて無理だ。  創作に関わるアイディアが浮かんだら、真夜中であろうがパソコンを開くだろうし、頭が回ればそこから作業を始めたくなる。  そうすると、眠るのは朝方で、起きるのは昼過ぎになる。    特別な仕事が入らない限りは、朝起きて夕方までに作業を終わらせて、夜眠るという生活もできるけど、職業柄イレギュラーな仕事が入るのは珍しくない。そう考えると、普通の生活を送る人と共に過ごすのはお互いストレスになるだろう。    相変わらず走り回れそうなほど広いリビングに着くと、「すぐ準備するから座ってて」と言われ、私はダイニングテーブルに座った。  「ごはんとバケットどっちがいい?」  あれ? ここはレストランだったかな?  オーナー兼シェフに尋ねられて、私は悩んだ末「ごはんでお願いします!」と答えた。  千紘さんがごはんの準備をしてくれている間、私は出会った日のことを思い出していた。  初めて会った時は、彼を五穀豊穣の神様だと思っていた。  だけどまさかの人間で、業界の大先輩で、仮とはいえ自分がそんな人の恋人になるなんて……人生とは何が起こるかわからない。  まさか自分に恋人ができるなんて、そんな未来、考えもしなかった。
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