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09、凶暴と傲慢
「…………」
舌打ちに似た発音の短いスラングが聞こえて、そんな言葉使うんだなあと明後日に遠く思う。
「続けないのなら早く退け、役立たずめ」
足で押し退けられ、ええ!?と、抗議の声を上げる。
「今のは完全にあなたのせいでしょ!?」
「許しもなく愛称など使うな。馴れ馴れしい」
鼻先に憤慨の息を噴いているルスランに、はア!?と、声で返し。
「いや、馴れ馴れしいって? 二ヶ月も毎晩のように、」
言いかけて、待てよ、と一度口を閉じ。険しい眉間のまま股を拭って、ティッシュペーパーの箱を投げて寄越してくるのに、少し危うくキャッチして。
続く毒気はなく、自分も股間を拭う。
「許しを得たらいいんです?」
なんだと?とばかりに向けられる険のある目に、眉を上げてみせ。
「あなたのことをルーシャと呼んでもいいですか?」
呆気に取られたように開く口を見たまま、ニコリと笑みさえ浮かべてやる。
何か言おうとした口を、けれど一度閉じて、何をどう収めたのだか、充分に横柄な頷きを寄越された。
「……いいだろう」
どうも。と、わざとらしく会釈を返して。
白けた場を放り出すように、シーツの上に身を投げ出し、寝転んだままで、残った衣服を脱ぎ捨てていく。
「そういえば、カルドゥワの血縁者がいたか?」
唐突な問いに、はい?と、最後の靴下を放り出しながら、顔を向ける。
身を崩して隣に寝転ばれ、肘を三角の枕にこちらを向く、珍しく寛いだ様子に瞬いてしまう。
「グネイデンでは、ルスランをルーシャとは略さんだろう」
ええ。と、慣れたとはいえ大いに呆れながら頷き、こちらも彼の方を向いて身を転がす。
「あなたが部下に調べさせた調書に書いてあったでしょ。ばあさんがカルドゥワ人なんです」
そうか、と、普段の顔で頷く関心の低さに、ため息は腹に隠し。
「グネイデンでなら、ルスランはどう呼ぶかなあ」
ルス? ルシー? ランかな?と、自国にはない名前をどう呼ぶだろうかと、少し首をひねって。
なるほどという風に相槌を打っている勉強熱心なツラに、仕方なく柔い息を吐いた。
「……。ユクターは、ユクかユキと呼ばれることが多いですよ」
「そうか。途中で切るか、語尾がイになるか?」
それが多いですね、と頷いて返しながら、1mmたりとも自分を愛称で呼ぼうなどという発想が出てこないらしいのに、普通に傷つく。
何度も繰り返している気がする。
揺すれど叩けど、身体まで作り替えてやっても、重さすら量れぬ壁のよう。動かぬ彼の心を、何度目だか、また仕方なく諦め。
中流と呼べる生家でも貧しかった子供時代のルスランの話を聞き、ありきたりな混血児の疎外感に満ちた自分の昔話を交わして。
珍しく任された彼の身を抱いて眠った。
それから、時々、ルスランはセックスの後で別の部屋に戻らずに、自分の隣で眠るようになった。
人肌の心地良さにふと目を覚まし、朝になったのだろうかと、首だけで窓を振り返る。カーテンの隙間から見える窓の向こうは藍色で、夜明けが近いが、まだ日が出てはいないらしい。
いつも、自分より早く目を覚ましているか、眺める間もなく身を起こしてしまうルスランの、深い寝息が聞こえる。
物珍しく、穏やかというより不思議と真面目そうに見える寝顔に、なんだかおかしくなったりして。
ふいに、イタズラ心が起きて、手を伸ばす。
力の抜けた重い足をそうっと引き寄せ、自分の腰の向こうへ掛けさせて。
目を覚ます気配がないのを目で確かめながら、尻の間に指を這わせる。
きれいに拭われた尻の穴は、濡れてはいないが柔らかく、昨夜しつこくしたせいで、中央だけ小さく開いたままになってしまっている。
乾いたまま入れられるのを嫌うのを思い出して、自分の唾液で一度指を濡らしてから、卑猥なそのくちに、指を忍び入れた。
ゆっくりと沈めても穏やかに繰り返していた寝息が、何度か優しく前立腺を転がしてやると、少しずつ浅くなって。
「ぅ、ん……」
じわりと身を捩り、眉を寄せる顔に、こちらの方が息が詰まってしまう。
しこりに引っ掛けるようにしながら、長く内側を擦ってやって、眉が下がり、唇が薄く開くのを見つめながら、指を増やす。
ゆっくり、ゆっくりと炙るよう、出入りを繰り返す指に、上がっていく熱が伝わってくる。
「……ぁ、」
切ながるような声が、ひとつ聞こえたと思った瞬間。バチッと、陰を差す眼窩の奥で目が開いて、サファイアブルーが一瞬で燃え上がる。
「貴様…ッ!」
こわ、と小さく舌を出しながら、肩を竦め。
「最後までしませんし、気持ちよくしますから」
「あッ!」
強張ろうとした身体が、なせず崩れる。シーツを掴んで、そこに顔を擦りつけ、けれど、どうやったのか、すごい力で蹴飛ばされた。
「いッて……」
なんでどうやって、この近い距離から鳩尾に当てられる?
殴られたのか? いや、手の位置は見てた、などと、腹を押さえながら呻いて。
「二度と目が覚めないようにしてやるべきだったか?」
怒気を孕む声が話しながら冷ややかになる。顔より喋り方の方が表情豊かだな、と、痛みにげんなりしながら顔を上げれば、引き締まった尻がベッドから下りていくのが見えた。
「そんな怒ります?」
「朝は忙しい。じゃれつくな」
ピシャリとした声に、従順ぶってハァイと返し。
下着を着けて、部屋着を引っ掛け、出て行く背を「お気を付けて」と送り出す。
「……。ここにスーツも置いとけばいいんじゃないですかね?」
扉の向こうに見えなくなった背に、届かぬ声をひとつ語ちた。
それで終わったと考えたのは、甘かったらしい。
帰ってくるなりつかつかと歩み寄る彼にいきなり殴り飛ばされ、一瞬で気を失い、床で頭を打った痛みで意識が戻るという、貴重な経験をした。
仕事の邪魔をするな、と、鬼の形相で言われる意味が短い間分からず、意味が分かってニヤけでもしてしまったか、更に腹を踏まれた。
勤勉で、切れ者で、凶暴で、淫乱で、潔癖なところがある。
けれど一度だけ、カルドゥワの家庭料理で唯一つくれる豆のスープを厨房で作ってみせた時は、表情を緩めてずっと見守り、手つきがいいと褒めてさえくれた。
何も変わっていないような気がするのに、過去の全ては遠く。
最初は豪邸だと思っていた、けれど、生きるには狭すぎるはずの、彼の支配で区切られた世界。
慣れきり、麻痺したように知らず永遠のように感じていた日々は、だが、唐突に終わりを迎えた。
「えっ……」
手渡されたパスポートを見た時の違和感は、なかなか言葉では表しがたいものだった。
ユクター・ミザック、と、自分の名前が記され、自分の顔写真が貼られているのに、まるで作り物のように感じる。
出入国の記録を見ても、日付までも間違いないと、理解はできるのに。
「明日の朝、空港まで送っていく」
「……。誰が?」
パスポートに重ねて渡された航空チケットを眺め、ポカンとする気持ちを、なんとか横へ押し退けようと頭に力を入れる。
「運転手だ」
「あなたじゃなく?」
「仕事がある」
「ハア。…せめてここを出たら自由にさせてくれませんかね?」
チケットに記されたグネイデン行きの文字に目を落としながら、やれやれと息をついた。
「国に着いたら自由にするといい」
「一体、何故ここまで?」
そうして少しずつ戻ってくる感覚は、ルスランと出会った日にピントが合う。
不可解な、不愉快な、彼の傲慢さにあきれる腹の内。
また意味の分からない話で煙に巻かれるのだろうと思った耳に、だが、聞こえた答えは意外なもので、顔を上げる。
「国に帰れば解るだろう」
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