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夕陽が狭い室内を照らす時間帯に、チャイムが鳴った。
無視を決め込んで醤油さしの頭の赤い部分をひねって開ける。
「入るぞ……何しとんだお前は」
醤油さしの中身を飲み干そうとした俺は、無礼にも玄関扉を開けて部屋に入ってきたスーツの男と目が合った。
「放っておいてくれ……職も健康も全て失った俺はもうこうするしかないんだ!」
ドン! と醤油さしをちゃぶ台に叩きつけるように置く。
濃い口の黒々とした醤油が吹きこぼれた。
スーツの男、いや、20年来の幼馴染である藤野はため息をついて、やれやれとボロ畳の上にどっかり胡坐をかきじっとこちらを見る。
「……続けて?」
「……普通止めるよな? 見せもんじゃないぞ。帰れよ」
「勿論、俺だって見たくない。だが、20年来の幼馴染が醤油自殺なんて馬鹿なことをしようとしているのに帰れるはずもない。お前だって逆の立場なら居座るだろう?」
「ぐっ……そうやって分かった風なことを……」
藤野の言葉に、醤油さしを握る俺の力が弱まる。
そう、こいつだけだ。
こいつだけは俺がどんなふうになろうと傍にいて、俺のやろうとすることを否定せず、ただ淡々と事実だけ述べ、腫物扱いしなかった。実の両親ですら見捨てた俺をだ。
「ほら、フキン。それからお前体調はどうなんだ? 昨日病院の日だったろちゃんと行ったのか?」
「病院の先生はダメだ。俺が食べ物がのどをつっかえるって言ってるのに同じ薬しかよこさないし、車を運転するときに息ができなくなって体がこわばって気持ち悪くなるって話してもぜんぜん聞いてる感じがしない……」
藤野はため息をつきながら台所に置いておいた俺の薬と、コップに水を注いで持ってきた。
「医者もいろいろあるからな。内情より実情なんだろうよ。でもお前の症状に合わせて薬を出しているのは確かだ。こういうのは継続して飲まないと意味がないんだぞ?」
「いらない……飲みたくない。どうせ俺は死ぬんだ。社会のお荷物のままこの部屋でひっそりと、誰にも看取られずに……」
嫌な想像しか浮かばない。
体育すわりをして、膝に顔をうずめる。
「いやいや、何のために俺が二日おきに様子見に来てやってると思ってんだ? それにお前精神疾患ってのは数日やそこらで治るもんじゃねーぞ。お前にはまだ貯金もあるし、保険だって出てる。数年は働かなくても生きていけるんだから今はゆっくり休んで飯食って体力付けて……」
「お前だっていつか俺を見捨てるに決まってる。」
「面倒な彼女かよまったく……」
「俺が女だったらお前に見捨てられずに済んだのかな」
「見捨てる前提で勝手なこと言うな。いいか? お前のそれは不安障害って言ってな、日常生活に支障が出るほど強い不安が襲ってくる精神疾患の一つだ。お前、前の会社の上司から毎日仕事せっつかれて、責任を負わなくていいところまで負わされて、手一杯な所に新人の研修をして……って感じで頭の中が焦りでいっぱいになってたろ? あれどうしようこれどうしようって」
「話してなかったのになんでわかんだよ……エスパーかよ」
俺は皮肉に笑った。
体調を崩す寸前の俺は確かにそんな状況に身を置いていたからだ。
昔から藤野は察しがいいと言うか、頭がいいというか、俺にないものを沢山持っている。
そういうところが憎らしくて頼もしかった。
「というか医者でもないくせになんで俺の病名が分かった」
「飲んでる薬から少し調べればわかる。あとお前はパニック発作も併発しているらしいな。お前の事だからパワハラにずっと耐えてきたんだろ? ストレスで自律神経が狂って呼吸困難を引き起こしたりもするからな。で、今は鬱症状もある」
スマホをスライドしながら高速で記事を読む藤野は当然とばかりに告げた。
何故こんな面倒見が良くて行動力があり仕事もできる奴が俺の友達なのかわからない。
昔からうじうじして、女々しく見えていたはずの俺の傍に何故いてくれたのか……
「お前が本物の医者だったらよかったのにな。そうすれば食べ物がつっかえる症状も治ってたのかもしれねぇ」
そうだったら少なくとも俺は喜んで病院に通っていた。
ため息をつくと、藤野はカバンから怪しげな「薬」と書いてある白い紙で巻いたペットボトル飲料を取り出した。
「なんだ、これ?」
「飲め」
真剣な目で一言。
「い、嫌だ……」
明らかによくわからない飲料に後ずさりをすると、藤野は眼鏡をかけてもいないのに、くいっと頭のよさそうなポーズをとった。
「これは藤野家に代々伝わるどんな病気でも治しちまう魔法の薬だ」
そんなことを言う藤野に、俺は悪いが鼻で笑う。
「魔法の薬なんてあるわけないだろ。それを飲んだら俺の症状が良くなるって言うのか? 飯が食えるようになるって? 馬鹿にしてんのか?」
藤野は相変わらず真剣な目つきだった。
「俺がこの20年の付き合いでお前を愚かだと思ったことはあるが、馬鹿にしたことはない。それに、藤野家は代々薬師の家系だ。藤野は不死ノに通じ、生きたいという人間の願望に寄り添ってきた……と婆ちゃんが言っていた」
「へ、へー……で、この魔法の薬のでどころは?」
「その婆ちゃんからもらったものだ。いいか? 俺と話していくなかでお前は俺が医者だったら症状が治っていたかもしれないと言った」
「だからなんだよ?」
「実は俺は毎回この薬を持ってきてはいたんだ。だが、お前が後ろ向きな発言ばかりだから精神安定のための会話や、洗濯を干すなど家の用事だけにとどめた。が、今、お前は無意識だったかもしれないが、前向きに症状を治したいと言った。だから俺はコレを取り出した。薬は良くなりたいと思わないと効かないからだ」
「…………」
俺はまだ半信半疑ながらも、藤野が差し出すうさんくさいペットボトルを掴んだ。
「本当によくなるのか?」
「……わからない。でも試してみる価値はある」
ここで奴が効くと言ったら、つき返すつもりだった。だが、藤野の視線は真剣そのもののままで、馬鹿にしたような気配もない。
俺は蓋を開けて匂いを嗅いだ。
どこかレモンのような酸っぱさがあった。
薄黄色の液体だ。
「…………よし、」
俺は覚悟を決めてその液体を飲む。ゆっくり、ちびちびと、若干、舌がしびれるような感覚があったが、味はレモン味のスポーツドリンクのようだった。
飲み終わるまで微動だにしなかった藤野は、俺がそれを飲み終えるのを確認すると、ふっと笑って畳から立ち上がる。
「また二日後に様子を見に来る。だから今日みたいに醤油を飲んで死のうなんて考えるなよ?」
二日後。
「どうだ調子は?」
やってきた藤野を部屋に上げて、茶を出す。
俺は弾む声を抑えられず、ちゃぶ台を両手で叩いた。
「ああ、聞いてくれよ! お前の薬を飲んだ次の日の朝に、目玉焼きとおかゆで朝ごはんしてみたんだよ。そしたらなんかつっかえるのがあんまりなくてさ! 全部食えたんだぜ! 昼もそばが食えて、夜はうどんにしたけど、それも全部! もう三日前とは大違いよ! あ、病院の薬もちゃんと飲むようにしたぜ。そうしないとお前に怒られちまうからな!」
藤野はお茶をすすりながら「そうか、それはよかった」と微笑んでいた。
「いや~、お前んちの薬すげえな! 本当に魔法の薬だ! もうないのか? できたら何本かとっておきたいんだけど……」
すると、藤野はカバンから薬と書かれた白い紙が巻かれたペットボトルを取り出した。
「そう言うと思ってな。あるぞ、ほら」
「サンキュー!」
と、ペットボトルを手に取った瞬間、外側の薬と書かれた白い紙がはがれ、よく薬局に売っているスポーツドリンクの表紙が……。
「おい?」
「……よく言うだろ。信じる者は救われるってな」
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