鬼子

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 民子はある日、月を眺めながら手を伸ばした。  --あれはどれ程遠くにあるのだろう。  とてもとても遠くに月が存在する。あのお空の向こう、民子はそれが自分には手の届かない幸せのような気がして、不思議な思いがした。  自分の末は餓死かしら。病気になっても誰も看病なんてしてくれやしない。  民子はかざした手を捻る。月が隠れる。  月は美しいわ。  民子はただ月が妬ましかった。普通の身に生まれてれば、とっくに嫁に行って家の役に立ってる年である。妹の方が婚約は早そうだ。  昔妹のまだ幼かったとき、といてやった髪の艶やかな黒さに、嫉妬したものだ。妹はその頃はまだ無邪気なものでねえねねえね、といってはそばをまとわりついた。それが今ではあの様だ。  民子は手を引っ込めて目を細める。家の外に出たことはない。どんな風なのだろう、外を出歩く気持ち、とは。  そこまで考えてからゆるりと頭をもたげる。金色の纏めた髪が肩筋を揺れる。姉上の次は妹が自分の髪を、小遣いほしさに欲しがる。民子はそれを許していた。自分の髪でも役に立つのならと、自分には一銭もならない髪をあげていた。  その髪を取りに来るのも、雪子ではなく下働きの女中だった。家に一日中いるから、家内の者の愚痴は一日考えてもつきない。そうして心の中では醜い考えを抱き、笑う自分は端からどう見えるのか。  民子は台所でもらってきた水のように薄い焼酎を、一口飲む。月見て一杯なんて男の楽しみである。民子は酒がどうしてもやめられぬ。白い顔の目元がほんのり赤く染まって頬は上気し、艶っぽい様である。 「なに?」  屋敷の主人は聞き返す。大和は怯まなかった。 「はっ!民子さまをわたしにくださいませ!」  土下座したままそう答える。周りはにやにや笑うばかりだった。 「民子を…か?」  主人は面食らう。てっきり雪子をくれと言い出すだろうと思っていたら、民子をくれとこの若者はいう。あの鬼子の民子を。なんの魂胆があって。けれど口をついて出たのは険のある言葉ではなかった。 「…よいのか?」  ようやく肩の荷が下りる。主人にはどこかそんな気持ちがあった。 「はっ!身分も釣り合いますゆえ!」  そそくさと配下の者が、酒の用意をし始める。ささやかな宴の始まりだった。  珍しく呼び出された民子は、主人の前で三つ指を付く。 「なんでございましょう、父上。」  父はそわそわと落ち着かぬ様で、隣の若者を紹介した。 「こやつは大和と言う。その…お前を…」  そうして唾を飲み込んでから「嫁に行かしたいのだが。」と思いきったように言った。民子は一瞬耳を疑って隣の若者を見やる。にこにこと人が良さそうに笑っている。何か奇妙なものを見るように民子は大和を眺めた。今まで触るなと言われたことはあれど、嫁にほしいなど青天の霹靂である。 「しかし、父上、私は…」  こんな身なりで…と気弱に言おうとした民子の口を塞ぐように大和は言った。 「お前がほしい。嫁になっておくれ。」  そうして身を乗り出して民子の手をとる。民子は父親以外の男性に始めて触られて、うつむいた。 「婚約は明後日簡易に済ます。よいな?」  民子は力なくうなずくと、薔薇色の頬に燃える青年の顔を再び眺めた。
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