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次の満月の晩、婚姻を。父上ったらそんなものなくたっていいじゃない。雪子は内心そう思ったが、兄のことがあるので口には出さなかった。母がそういうのは嫌悪するから、父親が遠ざけてしまうのだ。場合によっては死に追いやる。
父親にも母親にも愛されてきた雪子だが、その性格は少々、若者らしい未熟さに歪んでいた。姉の結婚を疎ましく思い、喜ぼうとしない。わたしが気に入っていた男だったのに、と思う。もちろん結婚はしないが、一生側に置いて可愛がってもらおうと思っていた。それを姉上に取られた。雪子のなかではそんな自分勝手な理屈が成り立っていた。雪子の中では民子は下よりも下である。恥をかかされたと最初は頭に血も上ったが、よく考えてみれば、自分の旦那は必ず大和の上司にあたるはずである。自分の方があくまで上なのだ。
それで雪子は胸の溜飲を下ろした。姉上の髪はいい金になったが、嫁に行ってしまうのなら諦めよう。
その晩、雪子は眠れずに天井を眺めていた。やはり大和のことが気にかかる。初恋だった。呆気ない。身分が違う。しかし大和の優しさや気概や男らしい体躯、そんなものが雪子は忘れられないのだった。雪子は歯噛みする。父の配下のものでは領主の父の娘である自分とは、身分が釣り合わない。民子がちょうどぴったりなほど下級武士だった。元は農民の出だ。戦で武功をあげて父上の目に止まったのだ。血が騒ぐ。姉上など。
朝がくるまでまんじりとも出来なかった。障子に朝日が差したとき、あと自分は何度こんな夜を過ごさなければいけないのだろう、とぼんやりした。
身支度をしているとなにやら女中部屋が騒がしかった。睡眠不足と合間ってイライラする。朝餉を運んできた女中に「なぁに、騒々しい」と聞いた。
「それが」
女中は口を憚るように辺りをキョロキョロ見回す。
「鬼子がいないのですよ。」
「まぁ。」
気心の知れた女中は、民子が一晩のうちに寝具だけ残して綺麗にいなくなった、と話す。
「話によると、人さらいだそうです。本当鬼子でよかった」
さらわれたのが民子でよかったと女中は胸を撫で下ろす仕草をした。雪子は「鬼にでもさらわれたんじゃないかしら」と笑うと、心の中でまさか、という気持ちに襲われた。女中が朝餉を下げてしまうと、暖かな日差しの中で考える。
…本当かしら。
けれど昼になって告げられたのは、民子がどうやら人さらいに本当にさらわれたらしいという、続報だった。
雪子はそっと大和を見る。まさか、と思う。自分の気持ちが天に届くなんてことあるわけない。大和は大分気落ちして仲間に慰められている。その気落ちの様に本当に姉上に惚れてたことが窺える。
姉上は辺りをまだ捜索中である。母親はショックで寝込んでしまった。寝込むくらいなら女中部屋で姉上を寝かさなければよかったのだ。父上がけじめなんて大事にするから。
雪子にはもう姉上は戻ってこないという確信があった。姉上はもうにここには戻らない。そうすると急に姉上へ子供の頃のように慕う気持ちが芽生える。不思議なものだ。
姉上は美しい人だった。金色の髪が日に透けて、日焼けも出来ない白い肌が蝋のようで。紅い、紅い目が…、まるで宝石のようにキラキラ輝いてた人だった。いつのまにかくすんでしまったのは、わたしのせいではないわ。姉上の努力不足よ。
雪子はさようなら、と心の中で思った。あまりに薄いといえば薄い情の在り方が、大和の嫌悪を呼んでるのだとは気付かずに。
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