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8章
以前、マトイエンジニアリングにいた頃、一度だけスナックに行ったことがあった。
本社の上司に、そこそこ大きな商談がうまくいって、その仕事終わりに勇樹と二人で連れていかれた。
それが初めてディープな大人の世界に触れた瞬間だった。
そして今、僕はその上司と同い年くらいの、今日初めて会った男性と共に、池袋のスナックにいる。
「ケイちゃん、お疲れ様」
ふくよかな体系の、スナックのママさんが、オーナーにおしぼりを渡した。
「つっても、今日は疲れることあんまりしてないんだけどね」
「あらそうなの?最近仕事は?」
「まあぼちぼちかな。ママの方はどうなの?」
「鳴かず飛ばずって感じよ。常連さんたちのおかげで暖簾はあげられてるけど」
ここに来る前に、オーナーは僕にこういった。
「俺はこの街の人に育てられたようなもんだ。若いころにやんちゃして、危ない目に遭った時にも、この街の人に散々助けられて、迷惑かけて、お世話になった。だからまあ、ここは俺の庭みたいなもんよ」
このスナックも、オーナーの行きつけの店らしく、たまに従業員を助っ人に寄こしたりしているようだ。
「今日は俺の驕りだ。気にせずに好きなもの飲んでくれ」
そう言われても、僕としては遠慮してしまう。
そもそも、なんで僕がこの人とこんな場所にいるのか。
瑠美のことについて、色々と聞こうとしたら、オーナーに場所を変えようと言われ、付いていった次第である。
「ビールはありますか?」
「缶しかないけど、いい?」
「ええ」
まずは酒が来なければ何も始まらない雰囲気だった。
そしてこういう時は、なるべく悪酔いしない、慣れた酒を煽っていくに限る。
「あ、とりあえず俺も同じもの頂戴」
オーナーも続けてそう注文し、懐から煙草を取り出して、火を付けた。
「おたくも吸うんでしょ?」
「えっ」
唐突に聞かれ、僕はつい苦い顔をしてしまった。
「ルナちゃんから聞いたよ。ヘビースモーカーだって」
「いえ。そこまでは」
でも、瑠美と一緒に吸うようになってからは、明らかに本数は増えたように思う。
瑠美にしたら、僕はそんな風に見えていたのか。
「いつも楽しそうに話してたよ、あんたのこと」
カウンターに向けて煙を吹きながら、オーナーはさらに続けた。
「新しい恋人ができたんだろうって、俺は嬉しかったんだけどね。でも、そういう関係じゃなくて、ただ一緒にいて楽しくて安心できて、適度な距離感で接してくれる友達だって、あの子は言ってた。俺にしたら、そういうのが正しい恋人だと思うんだけど、今の子と俺たちの世代は考え方が違うからね。そういう男友達ってのもいるんだなって、思うようにした」
スナックのママさんが静かに僕らにビールを差し出す。
「ありがと」
オーナーはお礼を言い、僕は静かにママさんに頭を下げた。
「最初に会った頃、あの子は人間を信じきれなくなっていた。色々と話を聞く感じだと、あの若さで人間の色んな醜さを垣間見てきたんだろう。ああ見えてあの子は、なかなか人を信じない。特に男はな。そんなあの子に信頼されている男だとしたら、俺もあんたを信頼すべきなんだし、感謝しないとならない」
オーナーはしゃがれた声でそう言って、僕ににこやかに微笑みかける。
「あの子の味方でいてくれてありがとうな。それだけは伝えておきたかった」
「いえ。僕の方こそ、彼女にお礼を言いたいくらいです」
謙遜ではない。
彼女に出会ってから、僕は自分の過去と向き合い始めている。
惨めで無力だと思っていた自分の生き方に、少しだけ光が差してきた気がするのも、瑠美に出会えてからだった。
「彼女と会えたことで、僕も自分の人生に、少しだけ真剣になれたんですから」
「そうかい」
オーナーはカウンターの奥にそっぽを向き、吸い終えた煙草を灰皿に押し付けた。
その直後に、店のドアが開く。
「ママさん、ただいまー。頼まれた炭酸水買ってきたよー」
その底抜けに明るい声に、僕は一瞬振り向いた。
以前より少し伸びた金髪の彼女がオーバーオールを羽織って、片手にコンビニのビニール袋を提げて立っていた。
僕は咄嗟に隠すように、顔をカウンターの方に戻してしまった。
「ありがとう。助かったわ」
ママさんがにこやかに微笑みかけた後、オーナーも彼女に振り向いて軽く手を振った。
「よっ、ルナ。久しぶりだな」
「あっ、ケイさん。お久しぶり・・・」
嬉しそうにオーナーに手を振り返した瑠美が、隣にいた僕に気づくのはあっという間だった。
瑠美は僕の方にずかずかと近寄る。
どんな表情で彼女が僕を見ているのか、顔を逸らしていたのでわからなかった。
「さっきラビットネストで仲良くなってな。そのままこっちに連れてきた」
オーナーはそう言ってビールを一口飲むと、美味そうに溜息を吐いた。
「悪い。ちょっとトイレ行ってくる」
するとオーナーはのっそりと立ち上がり、ふらふらと店の奥のトイレに消えて行った。
店にはBGMも一切かかっていない。静かなものだった。
瑠美はずっと僕の横に立っている。そこから微動だにしない。
「ルナちゃん。それ頂戴」
「あ、ごめんなさん」
瑠美は持っているビニール袋を、カウンター越しにママさんに渡した。
「オッケー。じゃあちょっと早いけれど、休憩入ってくれる?」
「えっ」
ママさんの言葉に、瑠美は驚いていた。
「でも・・・」
「いいからいいから」
ママさんは瑠美にウインクを投げると、炭酸水を持ってバックヤードに入ってしまった。
そこで改めて僕は、瑠美の方を見た。
瑠美は、唇を嚙みしめて、俯いていた。
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