8章

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「ほら、隣に座りなさいな」 またカウンターに戻ってきたママさんが、瑠美にハイボールを作って持ってきてくれた。 僕の右隣にグラスを置いたので、瑠美はゆっくりと僕の隣の席に座る。 「あっ、今日のおつまみ、そろそろ準備しとかないと」 「・・・ママさん、わざとらしすぎです」 「えへっ」 瑠美に突っ込まれるものの、ママさんは舌を出してまたバックヤードに引っ込んでしまった。 オーナーもトイレからまだ出てこない。 これはたぶん、僕と瑠美は、彼らの粋な計らいにはめられたのだろう。 少し沈黙した後、僕は思い切って瑠美に話しかけた。 「久しぶり」 「うん」 「元気だったか」 「うん」 それから先の会話に相応しい言葉が出てこない。僕の中のボキャブラリーが、突如枯渇してしまったようだった。 そもそも、気まずい再会で、陳腐な挨拶しか出てこない時点で、どうかしている。 「あのさ」「あのね」 同時に僕らは口を開いた。 「あ、先にどうぞ」 「いや、泰樹さんの方から」 まるで初めて顔合わせをする者同士の反応だった。 1ヶ月近く、気兼ねなく煙草を吸う間柄だったとは思えない。 互いに譲りあいを繰り返して、最初に僕から話を始めた。 「この店でも働いてるの?」 「うん。お店が暇な時だけね。最近、ケイさんに頼まれるようになって」 「それって、田宮たちが店に来てから?」 「・・・知ってたんだ」 「うん。イヴさんから聞いた」 おそらく、オーナーなりに彼女を避難させる意味でも、ここで彼女の働き口を確保していたのだろう。 「そういえば手紙、もらったよ。イヴさんから」 今度は瑠美から話し始める。 「そっか、読んでくれたんだ」 「当然だよ」 瑠美は俯きながら、申し訳なさそうに答えた。 「せっかく、就活おめでとうって書いてくれてたけどさ。もう全部意味がなくなっちゃった」 「・・・実はさっき、オーナーから少し聞いたんだ」 具体的なことはまだ聞けずじまいだけど、きっと瑠美から直接聞けという意味も込めて、僕をここに連れてきたのだろう。 瑠美は少しだけ顔を上げた。目の前の酒瓶が並んだ棚をぼうっと見つめている。 「内定、蹴ったって聞いたけど」 「蹴ったっていうか、ラビットネストで働いていることが会社にバレちゃってさ。正確には向こうから内定取り消しになっちゃったんだ。皆には見え張って蹴ったって伝えてるけど」 瑠美は明るめに声のトーンを上げて、笑顔を浮かべてくる。 そんな彼女が、酷く小さく見えてしまった。 「これからどうするの?」 「わかんない」 笑顔を消した瑠美は、ふるふると首を横に振った。 「今は少し就活から離れたいかな。というか、ガールズバーで働いていたらアウトなら、どこに応募してもうまくいかなそうだし」 すっかり自信を失っているようだった。 焦る気持ちと、何をやっても無駄だと感じる無力感。それらが彼女の中でせめぎ合っているのだろう。 僕にもわかる。同じ就活という戦線を潜り抜けた身としては。 「ごめんなさい」 唐突に瑠美に謝られる。瑠美は拳をぎゅっと握っていた。 「ずっと謝りたいと思ってた。あの日、『てっちゃん』でのこと。せっかくお祝いしてくれたのに、君にあんな態度を取っちゃって」 「いや、僕の方こそ、ごめん」 あの日のことは、僕が悪かった。 過去のトラウマが残る会社だったとはいえ、瑠美にとっては最初の内定先だった。 ようやく努力が報われ、自分の存在を認められた瞬間だったのだ。まずはそのことを素直に祝福してあげるべきだったのだ。 それに、彼女は僕と違って、何事もうまくやれる人間だ。きっと就職しても、なんだかんだ生き残っていけるかもしれなかった。 「僕の過去は、所詮僕の中で完結すべきだったんだ。君に余計な心配をできる立場なんかじゃなかった」 「そんなことを言わないでよ」 瑠美がぴしゃりと僕の言葉を遮った。 「私、一個だけ、泰樹さんの嫌いなところがある。いつも自分はくだらない人間で、どうしようもない弱い人間だって、そうやって自分で自分を貶めるところ」 ようやく、瑠美は僕の方を見てくれた。 その黒く輝く眼差しは、真剣に人と向き合う者の瞳だった。 かつて、勇樹が僕に向けていた眼差しのように。 「私にとって、泰樹さんは素敵な大人なんだよ。物事をちゃんと見ていて、辛いことがあっても、ひねくれも腐りもしないで、自分の生き方をずっと模索している。私はいろんな最低な男をたくさん見てきた。だけど泰樹さんは、そんな連中なんか比べ物にならないくらい、優しくて思いやりに溢れて、器も大きい人なんだよ」 そして瑠美は立ち上がり、僕の肩にそっと手を乗せた。 「私が惚れた人なんだから、そんな風に自分を蔑まないでよ」 瑠美の手は、とても温かくて、さっきまで外に出ていたとは思えないほどだった。 いや、僕の体が冷たかったのかもしれない。 冷たく固まった僕の体が、彼女から伝わる熱で、段々とほぐされていく。 僕はそのぬくもりを求めるように、肩に乗った瑠美の手を逆の手で握りしめた。
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