淵底の駿馬

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 煤灰色の牡馬が死に、その仔馬を取る予定だった牝馬はこれまでと変わらぬ日々を送っていた。  それは田植えの時期が過ぎて夏が訪れ、稲穂が青く伸びて頭が垂れ始めた八月の終わりのことだった。  弁財天を祀る村の神社の夏の例祭で、着飾った白茶毛の牝馬は今年も神馬の役を務めていた。牝馬の体に飾られた鈴がしゃんしゃんと鳴り、村の子どもたちはその音を追って神社の境内を駆け回る。彼らは代わる代わるに牝馬の五色の手綱を手に握り、この年の残りの日々の無病息災を祈るのだ。  提灯の灯りに照らされた境内で手綱の儀式が一通り済み、山間の村のさらに奥、弁天様の奥宮から運ばれてきた湧き水が牝馬に与えられた。いつも通りに祭りは終わり三々五々に村人が家路に就いたその辺りから、空がごうごうと鳴り始めた。 「山風か」 「風だけなら良いが、大雨は困る」 「稲が倒れなければよい」 「倒れても水に浸からなければ良いのだが」 「田から水を抜いておくか」  村人がそんなことを話しているうちにばらばらと大粒の雨が降ってきた。風もびゅうびゅうと吹き付ける。嵐の予兆は昼間からあったのだが、祭の準備に追われていた村人たちは見逃していたのだ。  田から水を抜く間もなく、家屋に雨戸を立てる間もなく、山間の村は突然の嵐に晒された。先ほどまで遠くの空を鳴らしていた轟音は、今は頭上で稲光を光らせ雷鳴となって尾根筋にいくつも落ちてきた。雨と風は地面を抉り、家屋の屋根から茅を飛ばし、村人たちはずぶ濡れになりながらその家の一番太い柱に、地に据えた竈に、しがみ付いた。  夜が明けるまではどうにかと、南無阿弥陀仏の経文を唱えながら堪えているうち、どど、どどう、と地が鳴り始めた。  どどうどどう、どどうどどう  地鳴りは次第に大きくなってくる。 「鉄砲水か」  神馬の役目を終えたばかり、白茶毛の牝馬を飼う家の者もその音に気がついた。馬の耳はずうっとぴんとまっすぐに立ったままだ。ばしゃばしゃと水を蹴る足音がして、隣家の者が駆け込んできた。 「でかい鉄砲水だ、山津波だ、すぐにここから逃げろ! 弁天様の御堂まで登れ!」  どうどう、どどうという地鳴りはすでに木々の根まで震わせていた。気丈な妻が十にならない子を背にしっかりと括りつけている。馬の飼い主は牝馬を見た。牝馬は今にも崩れそうな家屋の中からじっと外の嵐を見ていた。まるで何かを待っているように。  飼い主は牝馬を厩に繋ぐ紐を解き、その尻を強く叩いた。  人が牽くより馬が自ら駆けた方が遠くに逃げることができる。 「御神水を飲んだばかりのお前には弁天様のご加護があるだろう。逃げろ、そしてかならずこの家に戻って来い」  飼い主は馬にそう言い聞かせ、家の外に放った。  稲光が一瞬、白茶の馬の毛並みを雪のような真白に光らせた。  牝馬は首を巡らせ、なにかに耳を澄ませる様子を見せた後、すぐに嵐の中に駆け出して姿が見えなくなった。飼い主は妻と荒縄で互いを括り、嵐の中を一目散に弁天堂まで走り始めた。  闇の中から全てを押し流す山津波が、村を襲った。  夜が明けてみれば村の半分が山津波に呑み込まれていた。田も畑も家も、そのほとんどが流され、埋まり、破壊されていた。  だがこの村が山津波に襲われたのはこれが初めてのことではない。昔から何度も何度も鉄砲水や山津波に流されてきたこの村では、祖先代々から山津波への備えが伝えられていた。農民は自らの意思で住む土地を移ることはできない。この地に住む者達は日頃から山の禍の覚悟はできていた。  家屋を失った者は弁天様のお堂に寝泊りして復旧作業に備えた。  山津波の知らせを受けた代官所が検分のための役人を寄こすという日の朝。  辛うじて柱と梁は残ったもののほとんど半壊した家を直している飼い主の下に、あの牝馬が戻ってきた。  祭礼のために磨き上げられていた毛並みは泥水に塗れ、タテガミは濡れて首に貼り付き、蹄にも大きな傷がついている。怪我をしたのか、後ろ脚に一筋の血が流れていた。  飼い主は牝馬を見て飛び上がって喜んだ。 「おうおう、戻ってきたか、無事だったか。よく帰ってきた……!」  牝馬は厩のあったところに歩み寄り、ごろりとその場に寝転がると大きく息を吐いて眠り始めた。飼い主はぐっすり眠る牝馬の体を丁寧に洗い、傷の手当てをし、泥をすべて落としてやった。  ※ ——さてその数カ月後のことでございます。  飼い主は牝馬の腹が膨れてきたことに気がつきました。馬喰を呼び様子を見させますと、どうやら子を孕んでいるようだとのこと。慌てて宿場町から馬医を呼び、間違いなく牝馬の腹の中に子がいることを知ったのでございます。  牝馬から目を離したのはあの嵐の夜。  同じようにどこかで放たれた牡馬と出会ったのでしょうか。それとも弁天様の御使いである龍神が嵐を呼び寄せてその牝馬を孕ませたのでございましょうか。  分かっていることは一つだけ。嵐の後に弁天様の奥宮を清めに行った神官が、泉の周りにたくさんの馬のひづめの跡を見つけたとのことでございます。
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