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子の種となった牡馬が分からない、という多少の収まりの悪さを感じるのは人間だけで、白茶毛の牝馬はこれまでの様に黙々と働いた。これまでと違うのは、村の若妻や妊婦が時折、子宝や安産祈願にと見舞いに来るようになったことだろう。
秋に期待されていた実りは山津波で全て流されたが、藩の役人の検分の結果、年貢は免除されることになった。
「来年の田植え、畑の作付けに備えて、土地を元の通りにするように」
土砂にへし折られた大木や運ばれてきた大岩を退かすその作業には、藩の命により周辺の村々からも人足が駆り出された。
村の長はそれらの人々に自分たちの食べる米を譲ってくれるよう、額に土をつけて頼み込んだ。
「なあにお互い様だあ」
「ずうっと前の鉄砲水んときはうちの村が世話になったから、こんどはおぬしの村の番というだけだ」
ありがたい、ありがたいと村人総出で伏し拝み、なんとか村が次の年まで食い繋ぐ米は手に入った。山肌に貼り付くようにして暮らしているこの辺りでは、昔から村相互の助け合いが行われてきたのだ。
雪が積もる前にあらかたの土砂は運び出され、雪解けを待って田づくりが始まった。
「土が入れ代わった。これが吉と出るか、凶と出るか」
山禍に見舞われたばかりの村人は些細なことであっても不安に駆られる。その度に弁天様に祈りを捧げ、供物を捧げて加護を願った。近くを通りがかった山伏に護摩焚きの祈祷も上げてもらった。
「うちの弁天様の龍神は、少々気の荒いところがある」
「山の龍だから、他よりも力が強いのだ」
「どうかお鎮まり下さい」
土を運び、祈り、畦を作り、祈り。
繰り返される村人の日々の営みのなかで、白茶毛の牝馬は与えられた仕事を働いていた。
新たに作られた田で収穫された最初の米は、弁財天に奉納された。
村の長は残りの米を吟味して、これまでと遜色のないものができていることを確信した。村の中に安堵が広がり、その年の秋祭りは世話になった周りの村々にも声を掛け、いつもより盛大なものになった。
その一方、浮き立つ村の雰囲気とは裏腹に白茶毛の牝馬の飼い主の不安は大きくなっていた。
牝馬の腹の子が生まれる気配を見せないのだ。牝馬の妊娠期間はおよそ十一ヶ月。その期間を超えても出産の兆候が無いまま日が過ぎていく。
本来ならば馬の出産に長けたものがいる牧に預けるところ、どうしても村の復旧のために馬の力が欠かせなかった。孕んだ牝馬の扱いについては馬喰からある程度聞いていた。無理をさせたのかもしれない。仔馬を堕ろしてでも牝馬を案じた方が良かったのか。
飼い主の不安は、十一月に入ったある日、的中した。
その日の仕事を終えて家に帰る途中、白茶毛の牝馬は道端に倒れ込んで起き上がらなくなった。横倒れになった牝馬の腹の痙攣は全身を足先まで震わせ、始まった破水の中にはほどなく血が大量に混じるようになった。
集まってきた村人が篝火を焚き、牝馬は運ばれてきた水で洗われ、荒縄で体を擦られ、懸命な手当てが施された。
仔馬の前肢が現われ、また多量の出血とともに頭が現われた。牝馬の呼吸はひどく長く、ほとんど息をしていないかの様だった。羊水に塗れた仔馬の胴を人が抱え、牝馬の腹を二人がかりえ抑えこみ、そうして止まらない牝馬の血が道を伝って畦から田に流れ落ち黒い土を赤く染めた。
明け方近くになってようやく仔馬の全身が外に現れた。血の匂いを嗅ぎつけた烏の声を聞きながら、飼い主は牝馬の心の臓が止まったことを知った。牝馬の死を悼む人々の輪の中で、生れ落ちた仔馬は死んだ母馬の腹に鼻先を埋めて乳を飲み始めた。
夜が明けると、仔馬は村人に託されて街道沿いの宿場へ向かった。乳を出す牝馬が近くにいないので宿場に溜まる牛にもらうためだ。見送りもそこそこに飼い主は家の近くに穴を掘って牝馬を埋葬した。そして先の山津波で倒された馬頭観音の石碑を見つけ出し、掘り起こしてその上に置くと、いつまでも、いつまでも拝み続けた。
村人たちにまだ生々しく残る山津波の記憶もまた、白茶毛の馬とともにその馬頭観音に刻まれた。
※
——さて、町に下ろされ牛の乳で育てられた仔馬のことでございます。毛色は母馬とは全く似つかない鹿毛の牡馬でした。冬が過ぎて当年二歳、春になりましてから、仔馬は宿場町から生まれた村へと戻されました。
白茶毛の牝馬の飼い主は喜んでその仔馬を迎えました。厩もそのために新しく建てていたのです。母馬の様に働いてくれるだろう、そう当然のように期待していたのです。
ところが、でございます。
鹿毛の仔馬は毛色だけでなくその性格も母馬とはまったく異なりました。人に懐つくどころか少しでも不用意に近づくと噛みついたり蹴とばそうとしたりします。それだけならまだしも人目を盗んでは厩を抜け出し、畑の作物を荒らすようになったのでございます。
仔馬の毛艶は日に日に美しくなっていきました。体を覆う艶やかな茶色の毛皮、四肢の先は炭より黒く染まっていて額には白い星がかたち良く流れております。若馬になる頃にはまるで金襴の絵巻物に描かれたような美しい馬になったのです。
けれどその猛々しさは人の手に余りました。
――やはり龍神の種であったのか。
やがて誰からともなく、村の中でそのような噂が囁かれるようになったのでございます。
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