淵底の駿馬

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 行方知れずになった鹿毛の若馬は、次の日の夕暮れ時に山の下の宿場町で彷徨っているところを見つけられた。  雨乞いの儀式から逃げて山の中に走り込んでみたものの、狼や山犬に一晩中追われて餌を食む暇も水を飲む間もなく、結局次の夜になる前に人の気配のあるところに戻るしかなかったのだ。野に生きた記憶も経験もない若馬に信州の深い山の自然は厳しすぎた。  人に飼われることを良しとしない馬は、人に飼われなければ生きられないことを思い知ることになった。 「この馬は、前に牛の乳を飲ませていたあの馬だ」  その宿場町は以前、母と死に分かれた鹿毛の若馬が連れていかれた場所だった。馬の毛色と額の白毛のかたちを憶えていた馬喰が証言したので、馬がどこから逃げ出してきたのかはすぐに明らかになった。  夜が明けるのを待って、宿場に馬がいることが飼い主のいる村に伝えられた。  だが、村からは誰もこの馬を引き取りに来なかった。村の者達は雨乞いの儀式で鹿毛の若馬が死んだことにしたかったのだ。  飼われている馬は、藩の命があればそれに従って荷役などの賦役に出さなければならない。そしてその賦役に備え、馬を飼育する者は日頃から充分な馬の世話をしなければならなかった。  未だ山津波の傷の癒えないまま旱魃に晒された小さな村にとって、耕作に使えない荒れ馬を、いつ課されるか分からない賦役のために飼い続けるのは負担の大きいことだった。  ——一度龍神の贄に供した馬なのに、それを引き取るのは縁起が悪い。龍神の怒りに触れでもしたらまた山津波が起こるのではないか。  こじつけの理由でも、苦しい言い訳であっても、神仏の祟りを恐れる気持ちは誰にでもある。村の者達は馬が雨乞いの儀式に供され死んだことにして馬の世話のお役目から逃れることを決めたのだ。 ※  ——宿場の者達も持ち主のいない気難しい馬を持て余し、そうしてその結果、龍馬と呼ばれながらも生きながらに死んだ馬は私に預けられることになったのでございます。  小椋はそう言い終えると軽く頭を下げた。これでその馬の出自の話は終わったということだろう。杉葉が燃えた後の囲炉裏の炭は、夏の夜に赤く沈んでいる。 「話は聞いた。気の強い馬だという以外、他の馬と変わるところが無いのなら直ぐにでもその馬を貰おう」  これまでの小椋の話を聞いていたのだろうか、拙速に馬の引き渡しを求める田崎を宥めるように、小椋は囲炉裏から目を挙げて田崎を見た。 「そこまで取引をお急ぎなのでございましょうか。……それにしても羽代(はじろ)藩の家老ともあろうお方が何故、身分卑しい旅馬喰に馬の斡旋を頼まれたのでしょう。理由をお聞かせ願いませんか」  田崎は小椋と目を見合わせていても小椋の問いに答えようとしなかった。小椋はふと目線を上に逸らせた。 「先日、日輪(にちりん)の巫女を継がれた御方が命を落としたとの知らせを聞きました」  馬喰宿の周りに人家は無い。夜の静けさの中、田崎の緊張と警戒の気配が強くなる。その田崎の様子を横目でちらと眺めながら、小椋は言葉を続けた。 「とはいえ巫女であったのは嫁する前。数年前に羽代藩当主朝永(ともなが)様の室となり、男児をもうけられたと聞き及んでおります。人に嫁して力を失ったその巫女は黒河(くろかわ)藩の(たまき)姫。その御方の守り人こそ、田崎様、貴方様のことでございましょう」  田崎が小椋に話していないことだけでなく、環姫がそれとなく隠していたその出自を小椋は軽く口にした。 「……なぜ馬喰ごときがそれを知る」 「我が主である藤氏(とうし)の始祖は、古代より宮中の祭祀(さいし)を司る中臣連(なかとみのむらじ)でございます。日輪の巫女とはその頃からの縁がございますれば、折々に知らせを頂いておりました」  ——貴方様よりも我らの縁は深いのです。  小椋の言葉には田崎を牽制する意思があった。 「日輪の巫女は我らの古き知り合い、力になりたいと常々に思っておりました。亡くなった御方の思いに沿うならば、田崎様のお頼みを引き受けたいと思います。……ただ、儀式に生馬の贄を用いたいという依頼は意外に多くございます」  田崎が理由を明かさなければ馬を譲るつもりはない。  言外に小椋は田崎にそう伝えてきた。  親方を持たずに自由に諸国を行き来して馬を商う小椋が、ただの旅馬喰ではないことは察していた。大和に都が置かれていた古の時代から皇尊(すめらみこと)の政を補佐してきた藤原氏。その藤氏に連なる公家の書状と印を持って儀式の贄に用いる馬の斡旋をするという小椋の生業(なりわい)。  小椋は田崎とはまったく異なる世界の軸で生きている存在だった。そして小椋が生きているその世界は、環姫が田崎に決して立ち入ることを許さなかった領域と同じものだということを田崎は直感的に理解した。  田崎は目を閉じた。瞼の暗闇に環姫の面影が映る。 「……環姫様が命を落としたその場に御子がおられた。環姫様の非業の死を目の当たりにして、以降、言葉を話す力を失っている」 「ではその環姫の御子は朝永様の御世継にはなれませぬか」 「いや、言葉を失ったのは一時的なものだろう。何としてでもお世継ぎになってもらう。そのために元服を早急に執り行う必要がある」  小椋は目を細めた。 「その御子は未だお母上の死の悲しみから癒えておられないのでしょう。それをおして元服の儀を進めるのは、御子にとってはお辛いことではございませぬか」  田崎は目に力を込めて小椋を見た。 「このまま放っておけば御子ご自身の命が危うい。これまでに幾度も暗殺の(はかりごと)があった。お世継ぎであることが認められれば簡単に手出しは出来なくなる。馬、弓、刀。必要なものを早急に集め、揃い次第に元服の儀を執り行う」 「……それが馬市の立つ前に馬を手に入れたいという田崎様のご依頼の理由でございますか」 「そうだ」  環姫の面影が、少し遠くなったように感じた。小椋は田崎の様子を無言でしばらく眺め、口を開いた。 「武家の身過ぎは我らのあずかり知らぬところ。けれど巫女の御子が望むのならば、我らの馬をお譲りしましょう」  ——五日の後に羽代のお城へ馬を牽いて参ります。  小椋は田崎にそう約束し、その場で深く頭を下げた。
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