淵底の駿馬

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 七月終わりの陽光は羽代の海を碧く光らせていた。  約束通りに件の牡馬を牽いてきた小椋を田崎は部下二名とともに羽代城の手前にある船着き場で迎えた。 「田崎様、わざわざのお出迎え大変恐縮でございます」 「小椋、この馬か」  小椋の脇には毛並みの良い鹿毛の若い牡馬が佇んでいた。先日聞いた話よりも大人しく、馬体は艶やかで気品がある。悍馬(かんば)というより龍馬と呼んで通りの良い姿だった。 「左様でございます。歩き始めるまでは少々暴れましたが、一度鼻を捩じって大人しくさせてからは大した手間もかからずに、ここまで牽いてくることができました」  大人しいのは小椋の手管があったからのようだった。本来ならば荒れ馬を乗りこなすまでが馬喰の仕事だが、さすがに小椋であってもたった数日でこの馬にそこまでの調教はできなかったようだ。  それで良い、と田崎は思った。田崎はそもそもこの馬に調教を施そうとは考えていなかった。御子の元服の儀式を済ませれば用済みなのである。美しい姿かたちだけで充分だった。  馬の耳はまっすぐに立っており、横に、後ろに、微かだが常に動いている。  警戒、興味、好奇心。  馬の心理が耳の動きに現れていた。 「牽いている間はずうっとこの様子です。人に判断を預けず、知らない場所を恐れず、自分で状況を判断しようとしているのです。頭が良い馬でございます。駄馬にするのはいかにももったいない」  田崎は小椋の言葉を聞きながら、馬の体を検分した。 「少し小柄だな」 「牛の乳で育ったからかもしれませぬ。けれどあまり大きいと取り回しに苦労致します」  田崎は部下を呼び寄せ、馬の特徴や体の各所の長さを記録させた。(くつわ)(あぶみ)はともかく鞍はやや小柄なこの馬に合わせて作らせなければならない。  少し、馬が苛立つそぶりを見せた。 「馬に飲ませる水を持ってこい。(まぐさ)もだ」  田崎に命じられた部下たちは言われたものを取りに向かった。  その時。吹く風の向きが変わった。陸風と海風が入れ替わり、瞬間で潮の匂いが陸に満ちていく。  ここまでの道のりで海の匂いに慣れてはいたが、これほどまでに生々しい海の水の匂いを嗅いだのはその馬にとって初めてのことだった。  するり  馬は小椋の手から逃れて風の吹く方、波が寄せる砂浜に向けて駆け始めた。  打ち上げられた海の草、海の鳥、魚の匂い。砂浜に立つ数本の赤松は馬を波間に誘うかのように青々と葉をつけた枝を水平線の彼方へ向けて伸ばしていた。 「おや、逃げましたか」  まったく慌てる素振りのない小椋が馬の行く先に目を向ける。馬が駆けていく砂浜の先には小柄な人影が一つあった。  ※  鹿毛の若馬は生まれて初めて走る砂浜の感覚に戸惑っていた。(ひづめ)が埋まる、滑る。走ることを諦めて波打ち際の濡れた砂の上を歩いていくと、目の前に人がいた。人間の子どもだ。少年のようだ。  その少年はこれまで鹿毛の若馬が見て来た人間とは違っていた。頬や手の肌は見るからに滑らかで、きっちり身に付けた小袖と袴からは土の匂いも牛馬の匂いもしなかった。少年は突然現れた馬の姿に明らかに驚いた表情を見せたが、一言も言葉を発さなかった。どうしていいのかも分からないようだった。  一人と一頭の間には、しばらく波が打ち寄せる音が流れ過ぎて、ふいに少年はきょろきょろと辺りを見回したかと思うと足元の草を片手でむしり取って馬の顔の前に突き出した。  鹿毛の若馬は寄越された草の匂いを用心深く嗅いでから口の中に齧り取った。  食べたことのない草だった。草の匂いより潮の匂いの方が強い。  咀嚼しているうちに、馬は自分の腹が空いていたことに気が付いた。少年がまた目の前に草を寄こした。馬はそれも食べた。  少年は馬が草を食む様子を興味深げにじっと見つめてから、草むらからまた一束、草をむしってきた。根まで引きずってきたこの束の中には太く丈夫な(つた)が紛れていて、馬は嚙み切ることができずに力任せに首を振った。  まだ手の中にあった草の束を引っ張られた少年は、驚いて反対側に引っ張り返した。今度は馬が意表を突かれて噛んでいた草をさらに強く引っ張った。  勝気なのは馬だけでなくその少年も同じだった。目の前にいるのが自分とは別の生き物であること忘れ、両者はむきになって互いに草を引き合った。 「離せ!」  大きな声で叫んだ少年が力任せに引っ張ると、草の束はいきなりちぎれた。勢い余って少年はひっくり返り砂浜に尻もちをつき、四肢で踏みこたえた馬は残りの草をむしゃむしゃと食んで飲み込んだ。 「……そんなに美味しいのか」  馬が首を下げて自ら草を探して黙々と食べ始めると、その様子を見ていた少年は手近な草をちぎって齧った。 「美味しくない」  そう呟いた少年は、ふいに何かに気づいたかのように自分の口に手を当てた。逡巡はほんの一瞬のこと、少年は口から手を離して馬の額の白毛に触れた。 「これは、馬」  先ほどの大声に比べると声音が少しおぼつかない。 「これは、私の、手」  少し長い言葉を口にするうち、声に力が出てきた。 「……」  馬は草の生えた地面から顔を上げてその少年を見た。少年は馬を見た。そこでようやく互いが互いの全身を認識した。  十五歳より少し手前のその少年は、黒曜(こくよう)の煌めく瞳で若い牡馬の艶やかな鹿毛の毛並みを見た。馬の背に生える毛足は長く、まだ鞍を乗せたことがない、誰のものにもなったことがない馬だった。  田崎と小椋が馬に追いつき、田崎は人影が誰なのかに気がついた。 「千代丸(ちよまる)様、またお一人で外に出られたのですか。あれほど一人では出歩かないようにと申し上げましたのに」  千代丸と呼ばれた少年は田崎の小言に少々首をすくめたが、叱られたことをまったく意に介していないのは誰の目にも明らかだった。 「田崎、この馬は」  小言をまるで無視して千代丸が田崎に問いかけた。その声を聞いて田崎は驚いた。 「千代丸様、声が」  千代丸は少し首を傾げてから何でもないような口ぶりで田崎に告げた。 「ついさっき言葉が戻った。それよりも田崎、この馬を私の馬にする」  田崎はその場に跪いて承諾の意を表し、小椋はその背後で地に額を付いて平伏した。  馬は注意深く人間たちの様子を窺っていた。  この人間の子どもは他の人間よりも偉そうだ。土に塗れている様子もない。それに先ほどから聞いているこの子どもの声は、音の一つ一つが明瞭で聞き取りやすい。  悪くない。  千代丸の手が馬の首筋に触れても、馬は嫌がるそぶりを見せなかった。馬からそれとなく目を離さずにいた小椋が長縄を握りしめていた手から力を抜いた。逃げる馬を捉えるためのその縄は、もう必要が無いものだった。 「名前は、……そうだな」  そう呟く千代丸の瞳には久しく失われていた光が戻っていた。その意志の強い黒曜の瞳に、田崎は在りし日の環姫の面影を見た。  羽代の海を渡ってきた風が松の枝を揺らして奔放に伸びた馬のタテガミを巻き上げた。 「松風(まつかぜ)。お前の名は、松風だ」  その名前は鹿毛の若い牡馬が生まれた土地にも出自にもまったく謂れのない名前だった。だが馬は同意を示すかのように前足で一掻き、砂を蹴った。  元服前の幼名は千代丸、数年後に羽代最後の藩主となる朝永弘紀(ともながこうき)と愛馬である松風の、それが初めての出会いだった。 ――「淵底の駿馬」・完
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