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五月二十四日
昨日の騒動とは比べものにならない、とんでもないことが起こった。
朝、私はいつも通りの時間に寮を出た。
一応書いておくと、私たち児童は、私たちの通うこの独総院からは少し離れたところにある寮で起居している。
それぞれ部屋は別で、校外でクラスメイトと接触することは厳しく禁じられているから、学校に行くときも帰るときも、みんな一人だ。
ただ、メールでのやり取りや電話は教員の監視の下で許可されていた。
どこに行っても誰かの目がある。
私はそれが気に食わない。
これはあくまで噂だけれど、みんなは突然家にやってきた役人に連れ去られてここに来たらしい。
私も同じようなものだから、多分それが事実なんだと思う。
こんなこと日記に書いてるのをバレたらまずいけど、私は独総院が嫌い。政府も嫌い。
学校へ行くと、教室の雰囲気があからさまに違っていた。
私たちの使う机が、銀色に輝いている。いつもは木製のものだったはずなのに。
その机に触れてみると、どうやらアルミ製のものらしい。
机がいきなり変えられたことについて、誰か事情を知っているのではないか、とも思ったけれど、すでに学校に来ていたみんなも同じリアクションで、謎は深まるばかりだった。
「猪山先生のせいだよ、これ」
「やっぱりなんか企んでたんだ」
そんな意見も聞こえてくる。
「千歳さん」
そこへ、私の名前を呼ぶ声。
ランドセルを机に置いて振り返ると、そこに立っていたのはニンジンだった。
彼はいかにも何か言いたげな顔で、こちらを見ている。
近くで見ると、彼は病的なまでにやせ細っていて、ニンジンと呼ばれているのも納得の風貌であることが分かった。
「私に用?」
「い、いや、その……ええと」
「言いたいことがあるなら、はっきり言った方がいいよ」
ぼそぼそと呟くニンジンにそう言うと、彼はまっすぐ私を見た。
「ほ、本当に、ボク盗んでない、リコーダー」
「え?」言いたいことは分かったけれど。「なんで私に言うの? リコーダーを盗まれたのはピノだけど」
「それは、分かってる。で、でも……」
リコーダー窃盗犯という汚名を払拭したいのなら、当の被害者であるピノに言えばいいだけだ。
そこにタイミングよく、ピノが登校してきた。
昨日より表情は明るかったけれど、ニンジンと目が合ったのか、すぐにその顔には陰りが現れる。
私はニンジンの猫背な背中を押してやったけど、彼はドブネズミみたいにそそくさと自分の席へ戻ってしまった。
意味が分からない。
「千歳、おはよ!」
「おはよう」
「なにこの机?」
ピノが当然のリアクションをして、机を撫でた。
「私も分からない。みんなもたぶん分かってない」
「猪山先生がなんかやったんじゃない?」
ピノがそう言って笑った。
「そうだと思う」
チャイムが鳴り、間もなくして猪山はやってきた。案の定、何か企んでいるような笑みを顔に湛えて。
「おはようございます」
猪山はひとり落ち着いた挨拶をしながら教卓に立つ。
「これ、やったの先生ですか?」
アミがいち早く机の件を訊ねた。
「はい、そうです」
猪山は潔く認める。
その返答に、がやがやと教室が騒ぎ始めた。
「なんのためですか? なんでアルミ製の机を——」
「あは」猪山は笑いを含ませながら答えた。「落ち着きましょう。今から話しますので」
「先生、最近校庭でやってる工事も関係してますかー」
今度はドッジが訊いた。
「今から話しますので」
「なんでアルミなんですか」
ジョウが訊いた。
「今から話しますので」
猪山は感情を司る脳の部位が破壊されているのか、M国で発明されたAIロボットみたいに無感情に返答していく。
「先生の話を聞こう」
誰かが言って教室は鎮まる。
「では、まずわたしが皆さんと過ごしてきて、強く感じたことを述べましょう」一分ほどのち、猪山は話し始めた。「それは、このクラスのほとんどの人が、倫理観、共感性、人道的な精神が、欠如しているということです」
「どういうこと?」
小学生には難しすぎたらしく、ほとんどの人が首をかしげていた。
そんな反応を示したのは、いずれも先生が言った特徴に見事に該当する人たちだった。
「要約すると、まともな人間がほとんどいない」今度は分かりやすかった。「早急に、その曲がりに曲がった人間性を矯正する必要があると感じました。なので、今回みなさんのために、こんなものを用意していただきました」
猪山は言い切ってから、入口の方に首を向けた。廊下にいる何かに、目くばせをする。
すると、まず作業着をした女の人が入ってきた。そしてその女は、〝それ〟と手をつないでいた。
目の前に飛び込んできた光景に、私は思わず目を疑った。
「なにあれー」
「え、すご」
「なんだこれ」
突如教室に入ってきた生命体に、教室はざわつく。
体長は六十センチほど。どんぐりみたいな形の胴体に、手足と首が生えている。
脚は人間で言うと膝一つ分短く、足も人間のものよりもひと回りほど小さい。しかしその足にはしっかりと五本指。顔には人間と同じ位置に目、鼻、口があり、彫りは深い。顔立ちは、どちらかというと北欧系に似ていた。
頭髪はない。体毛もなく、体は病的に青白い。上半身は裸だが、下半身には申し訳程度にズボンを穿かせられている。
「小さい人間だ——」
誰かが言ったとき、教室の喧噪がいっそう増した。
そこに、猪山の笑い声が加わる。
小さい人間——
確か、幾年か前にアフリカのどこかで発見されたばかりの新種の生き物で、発見されて間もなく高級食材としてクローン培養され始めた。
その見た目は人間そっくりだが、全く異なる種に属しているとか。
「今日から一か月間、君たちと学校生活を共にする、おともだちです」
猪山はそう言って、女の手を握りしめている小さい人間を指さした。
「ドースル、ドーシタ」
小さい人間は、間抜けな声でそう言った。
「かわいい!」
猫好きのネコヤマが両手を合わせてそう言った。ほかのみんなも、同じリアクションらしい。
「転入生ってことですか!」
ドッジが興奮した様子で、アルミの机から身を乗り出して訊いた。
「転入生といわれれば、少し違います」
「一か月間だけ、って言ってたぞ」
ジョウがドッジに言う。
そもそも、小さい人間が転入生とは、滑稽にもほどがある。
「説明しましょう」猪山は説明を続けた。「皆さまの人間性を養うために、小さい人間を一体、この教室に派遣しました。小さい人間——性別はオスなので——、彼と一緒に一か月間、学校生活を過ごしてもらいます」
「一か月したらお別れですか?」
と、ドッジ。
「そうです。ただ、お別れと言っても、皆さんの想像するお別れとは一味違います」猪山はにやりと口角を上げる。「彼とのそれはそれは楽しい学校生活を過ごしたのち、みんなで解体して食べようと思います」
猪山の言葉に、教室に静かな激震が走った。
騒いでいた児童は急に黙り込み、手遊びをしていた児童はその動きを止めた。
「……え?」数秒のち、ネコヤマがそんな声を漏らした。「どういうことですか」
「いま言った通りです。小さい人間は、高級食材として知られていますね。その小さい人間を特別に生きている状態でいただくことができたので、十分に育てたのちに屠殺してみんなで食べます」
猪山は相変わらず無感情にそう言った。
「ドースル、ドースル」
沈黙の中、小さい人間が奇声をあげる。
「それでは、よろしくお願いします」
小さい人間の飼育員らしき女が、小さい人間から強引に手を離し、そそくさと教室から出ていった。
「さて、そろそろ分かってきたかと思いますが、これは道徳の授業の一環です」猪山はなおも続ける。「それも、命の大切さを学ぶ授業です。命の尊さを心得るために、一か月間、小さい人間を大切に育てましょう。朝の会はこれで終わります」
ちょうどチャイムが鳴る。
「信じられない……」
ネコヤマの失望する声が、わずかに聞こえた。
猪山は教室から去るついでに放置された小さい人間の肩をつかむ。
「千歳さんの隣が開いているので、彼にはそこに座ってもらいましょう」私はどきりとした。「我々の言葉はまだ理解できませんが、それなりに知能は高いので、皆さん次第で、意思疎通を取ることは可能です」
猪山は小さい人間の肩をつかみながら、私の席の隣を指さした。
すると小さい人間は「ニンゲン、ドースル」と意味不明なことを言いながら、その短い脚を動かしてこちらへ近づいてくる。
小さい人間を間近で見た児童が、顔をしかめるのが分かった。先ほどまで「かわいい」とリアクションしていた人たちも、今では頬杖をついて黙りこくっている。
「かわいい……」
そんな中、前の席のピノだけは、笑顔でそう呟いた。
小さい人間は、迷わず私の隣にちょこんと座る。そしてもう一度「ドースル」と言った。
私は、ある程度の知能は兼ね備えているにもかかわらず言動は支離滅裂であるそのギャップに、言い知れぬ気持ち悪さを覚えた。
「ああ、あと皆さんの机をアルミ製のものに交換させてもらったのは、小さい人間が木製のものをなんでも口に入れてしまう習性を持っているためです。では、そろそろ授業の準備に取り掛かりましょう」
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