『小さい人間ノート』Ⅱ

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五月二十五日  教室に行くとすでにドスルはいた。  昨日小屋の前で猪山が話していた、ドスルを小屋へ迎えに行く専門の事務員が連れてきたとのこと。  朝、猪山からドスルを屠殺するのは六月二十六日の一時間目、道徳の時間だと告げられた。  ドスルに新しい言葉を教える遊びで盛り上がっていたみんなは、いかにも興ざめした様子で猪山を恨めし気に睨んでいた。  一時間目は訓練場に出て、一か月に一回あるモデルガンを使った演習。  ドスルの参加は無理らしく、事務員が来て小屋に入れられていた。  訓練場に集まった皆は張り切って準備運動をしていた。  「よっしゃー、やってやるからな!」  ドッジがモデルガンを弄びながら、高らかに宣った。焼けた肌が青空の下によく映えている。  まだ五月下旬なのに、想像以上に暑かった。  「この温度で訓練って、嫌だね」  ピノが私に笑いかける。  「うん」  訓練場の端には、いつものように軍服を着た背の高い男が二人立っていて、ファイルを片手にこちらを見ていた。  空間は視線の先、百メートル先まで幅広く続いている。その端にまで至る道には、様々な障害物が用意されている。  今から私たちは重いモデルガンを腕に構えながらスタートの合図で一斉に走り出し、ゴールに立てられたフラッグを狙う。男子は青色、女子は黄色で、それぞれ一つしかない。  「準備はいいか」  端で立っていた男の一人が、よく通る声で訊ねた。  「おう!」  ドッジが同じ声量で答えると、それを合図に三十人ほどの児童がスタート位置に、一列に並び出した。  私の右手にはピノが並んでいる。そして左手にはニンジンが並んできた。  「やあ、千歳さん」  ニンジンは私を見て、不器用に笑った。  最悪だ。なんでこんなときに話しかけてくるんだろう。とはいえ、ニンジンの存在に気を取られていてはダメだ。私は切り替えて、ホイッスルの音を待った。  「よーい!」  みんなが走り出す態勢をとる。  視線の先、フラッグが揺れている。あれに触れることができるのは、この中でたった二人だ。そしてあそこにたどり着くには、数多の障害物を乗り越える必要がある。  ホイッスルが響いた。  みんなの脚が、一斉にスタートラインを飛び出す。  一瞬にして先頭と最後尾の間に、数メートルの差が生まれた。  男子の先頭グループに並んでいるのは、ロジン、ドッジ、ヌーボー、いつもの三人だ。「邪魔だ!」とドッジがロジンに体当たりするのが見えた。  女子の中では、学級委員のミルクが圧倒的だった。二番手のアミとかなりの差をつけて独走している。  私は中間層に何とか食らいつくように走った。走るのは苦手だし、力がないからモデルガンを持つ腕がすぐにきつくなる。  そのとき、何かにぶつかって地面に勢いよく顔を打った。モデルガンが数メートル先に転がり、頬からはじんわりと痛みが広がる。  顔をあげると、ネコヤマがこちらを嘲るように見下ろしてから、走り去っていた。  私を押したのはこいつか。死ねばいいのに。  私は腕を伸ばしてモデルガンを持ちなおすと、膝に付いた土を払いながらゆっくりと立ち上がった。  「ぐわっ!」  再び走り出そうとしたとき、今度は背後でそんな呻き声が聞こえた。つい振り返ると、ニンジンが転んだのか、地べたを這っている。  気づかぬふりして無視しようとしたけれど、不運にも目が合ってしまった。  「……」  仕方なく、私はニンジンに手を差し伸べる。  「あ、ありがとう」  ニンジンは私の手を握ると、苦しそうに喘ぎながら立ち上がった。  そんなことをしていると、次々とみんなに追い越され、いつの間に最下位になっていた。  ニンジンは自分が最後尾であることなど露ほども気にしていない様子で、ゆっくりと歩き始める。  見ると、彼の足が変な方向に曲がっている。  「行くよ」  私はそう言って、ニンジンに肩を貸してあげた。訓練で競争相手を助ける場面など見たことがないが、なぜか私はニンジンを助けた。  「ち、千歳さん……」ニンジンが惨めに呻く。「……痛いよ」  「あとで保健室行けば」  「つ、連れてってくれる?」  「一人で行ってよ」  あいにく、私はそんなに暇じゃない。  遠くで誰かの歓声が聞こえた。  どうやら、張り合っていたロジンとドッジを差し置いて、青のフラッグを手にしたのはヌーボーだったらしい。  誰かがフラッグを手にしても、最後尾がゴールするまで訓練は続く。  「ねえ、猪山先生の前職って知ってる?」  塀を乗り越えながら、ニンジンが訊いてきた。   明らかにこの状況で訊くことじゃない。  「A国のスパイ」  私が投げやりな回答をすると、彼は不器用にほほ笑んだ。  「そうだとしたら、ボ、ボクがとっくのとうに警察に突き出してるよ。い、いま敵国のスパイを見つけたら国家から大金が支給されるしね」  「話長いよ」  のんびりとニンジンが話している間に、遠くでミルクが黄色のフラッグを手にした。  でも私たちからは、ゴールはまだまだ先にある。  「え、ごめん」  「で、猪山の前職って?」  「科学者だよ。し、しかも、ハルキ研究所だよ」  「へー」  倫理観の欠如した、残酷さを極めた動物実験を繰り返し行ったことで、かつて社会問題にもなったあの研究所か。  だとすれば猪山も、冷酷なマッドサイエンティスト。確かに、あの見た目と雰囲気に見事にフィットしている。  「驚かない?」  「納得」  「よ、喜んでくれて、よかった」  「別に喜んでないんだけど」  「ごめん」  なんだ、この男。話しかけてくる勢いはすごいのに、話が頻繁に失速する。  私が不愛想なせいだろうか。  とにかく、時間を無駄にした。  私の前で走っていた人も、もうすぐゴールしようとしている。  だから、もはやどうでもよくなってきた。  このままニンジンを突き飛ばして走り出してもいいのだが、さすがに可哀そうに思えたので最後まで付き合ってやることにした。  そういえば、一か月前の演習も、最下位はニンジンだったっけ。見た目も、運動神経も冴えないのなら、いったいこの男は何に秀でているのだろう。  私はそれが気になった。  学校生活にドスルが加わったところで、私の生活はあまり変化しない。  今日も一日、ただ変わったことは隣にドスルが座っていることだけで退屈なことには変わりない。  ドスルはそろそろみんなの名前を覚え始めた。  「トモダチ」という言葉も使い始めている。おそらくドスル自身意味はわかっていないが、みんなが必要以上にそういう言葉を連呼するから覚えたのだろう。  帰りの会が終わったら、ドスルを小屋へ返す。そして自習したいものは教室。帰るものはばらけて寮に戻っていった。  私もすぐに寮へ帰った。
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