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「ドスルが、死んだ」
六月二十六日の朝、七時十五分。
私が学校の門をくぐったところで、ロジンが向こうから汗まみれになって走ってきた。
……え?
これほどまでに焦っているロジンの顔を、私は初めて見た。
私の頭の中で、たったいまロジンが放った言葉を反芻させる。
ドスルが、死んだ……?
それは要するに、私が来る前にドスルがすでに解体されたという意味だろうか。
いや、そんなはずない。猪山は今日の一時間目の道徳の授業でドスルを屠殺すると言っていたはずだ。
それに、ロジンの焦り方は異常だった。
「異常事態だよ。とりあえず、君も来てくれ、千歳くん」
ロジンは踵を返すと、再び走り出した。そっちは校舎ではなく、小屋の方向だ。
私はとりあえずロジンを追いかけることにした。途中で転びそうになったが、一分ほど走ったところで小屋が現れた。
明らかにいつもと様子が違った。
草むらに立ち尽くしているのは、ドッジ、ロケットヘッド、マスク、ジョウ、ニンジンと、アミ。ピノはまだ来ていないらしかった小屋の入口では猪山が壁によりかかって呆然としている。何かブツブツと呟いていた。
一方で何人かの職員が、何をすればいいのか分からない、というようにあたふたと動いていた。児童たちの動きを監視している様子はない。
一方で小屋の傍らには、見覚えのない青年が立っている。平日の社会人らしからぬラフな出で立ちをしていて、キャップを後ろ向きにかぶっていた。
普通に考えれば、彼が毎朝ドスルを迎えに行っていた事務員だろう。
ジョウがロジンを見つけて駆け寄った。
「何だよ、あの死体!」ジョウは取り乱した様子でその場に崩れ落ちた。「なんでこんなことばっか起こるんだよぉ!」
「とりあえず、落ち着こう」
ロジンはなおも冷静沈着だった。
「あ……あぁ……」
そう呻き声をあげるのはドッジだ。
「あ、ち、千歳さん……」ニンジンと目が合った。「来てたんだ」
億劫だと思いながらも、私は胸に抱えた機械に文字を打ち込んだ。
「これ、どういうこと」
機械から、音声が再生される。
「ドスルが、小屋で、し、死んでる」
機械に文字を打ち込む。
「それは知ってる」
「み、見た方が早いよ」
私はニンジンに言われた通り、小屋の中を見ようと再び歩を進めた。職員たちは相変わらず道を行ったり来たりしていて、私の存在に気付いていないのか、咎めてこなかった。
小屋の扉は開けっ放しになっている。
ドアノブに手をかけても、壁によっかかる猪山は私に目もくれずに独り言をつぶやいている。
「こんなはずじゃ……、こんなはずじゃ……、何がダメだったんだ……」
扉にはドアノブの上部分に穴が開いていた。足元には、金属片が落ちている。ラッチ部分が破壊されている。
只事ではないことは、もう分かっていた。
私は小屋を覗き込んだ。薄暗い室内を朝日が照らす。
赤い足跡が、入り口から奥へ、奥から入口へと一往復分付いている。
さらに奥へ目を向けると、奥の壁に小さい影が倒れ掛かっているのが見えた。
え……。
私は声にならない声を漏らす。
小さい人間だ。
全身がズタズタに切り裂かれて、真っ赤に染まっている。もう息絶えていることは、この私でもわかった。
私は無意識に歩を進める。
そのときセンサーが動きを感知したのか、自動でライトが点灯し、死体をさらに鮮明に浮かび上がらせた。
床を流れる赤い液体が光を反射する。
いや、床だけではない。
血はあちらこちらに飛び散っていた。三方の壁には、至る所に飛沫が付着していて、それは換気扇のある高所にまで及んでいた。
「君はどう思う?」
そんな声が聞こえてきてはっと振り返ると、ロジンが入り口に立っていた。
私は機械に素早く文字を打ち込む。
「殺されてる、これ」
機械的な音声のせいで、緊張感がまったく伝わらない。
「ああ、事務員の人が最初に発見したらしい」
私の中で恐怖よりも好奇心が勝って、私は小屋の奥へと足を踏み入れた。
べちゃり、と足元に嫌な感触を覚える。
そこで足元を見ると、どろどろの赤い液体がコンクリートの上を滑っている。そしてその海の中で、何かが光っているのが見えた。
何だろう、と思いしゃがみ込んでそれを拾い上げる。
人差し指ほどの大きさで長方形の形をした、薄い金属片だった。
「何だい、それは」
ロジンも近くでしゃがみ込む。
そのとき、私はその金属片の正体が分かった。表面に『M国死ね!』という落書きが読み取れる。
——私は思わず、自分の握った包丁を見た。この包丁で、ドスルの体を切り刻むのか。
意味もなく包丁の刃の部分をよく見ると、『M国死ね!』と、油性ペンで落書きがしてあった。愛国心の強い誰かが書き込んだのだろう。
先週、調理実習を行ったときの記憶が蘇った。
「調理室にあった包丁だ」
私はとっさに機械に打ち込む。
「その破片は俺が今朝、最初に小屋に入ったときから落ちてたよ」
入口から声がして見ると、先ほどの青年が憂鬱な顔でこちらを見ていた。
「なるほど」ロジンは私から破片を受け取って、頷いた。「ということは、ドスルを殺した凶器はこれだな」
「うん」
機械音声とともに私も頷く。
「あなたは、事務員の方ですよね?」
そこで、ロジンが入口の青年に訊ねた。
青年は苦笑を浮かべて頷いた。
「小野ユウイチ。小さい人間を毎日小屋から迎えに行ってた」彼はそこで、私が抱える機械に目を向けた。「面白いね、その機械。代わりにしゃべってくれるのかい?」
「生まれたときから声が出ないんです」
機械の音声が虚しく小屋に響いた。
ロジンが立ち上がって、小野を見る。
「小野さんにはあとで話を窺いたいので、小屋の外で待機していてくれませんか?」
「オーケー」小野はそこで心配そうにロジンを見た。「っていうか、これって警察呼ばなくてもいいのかい? あそこの職員たちに訊いても反応なしでさ」
私はロジンと目を合わせた。
「小さい人間が人間界にいること自体、異常事態ですからね。警察に通報したところで施しようがないと思います」
ロジンが理性的な返答をした。
小野は納得した様子で小屋を出ていく。
小屋の中には、私と優等生と異形の死体だけが残される。
私は改めて、骸となった高級食材に目を向けた。
壁にもたれかかり、申し訳程度のズボンを穿いた短い両膝を投げ出しており、その膝にはボロボロになった包帯が巻かれている。
顔はズタズタに切り裂かれ、原型をとどめていない。
顔以外にも体全体に切り傷があり、無数の傷から真っ赤な血が床に流れ落ちて固まっていた。
特に腹の部分は異常だ。腹は、胸から臍あたりまで縦に切り裂かれており、パックリと開いた穴から臓物が覗いていた。
「だいぶ残忍な殺し方だと思わないか」
ロジンの呟きに私は頷く。
あちらこちらに付着している血。
よほど力を入れて殺さないと、これほど血は飛ばないはずだ。
「相当恨みがあったのかな」私が機械を通して呟く。「それか、確実に死に至らしめたかったのか」
ロジンは、そう呟く私を興味深そうに眺めた。
「……おかしいな」やがて彼は口を開く。「確実に死に至らしめたかった……? なら、じっと待っていればよかったはずだ。何せ、犯人が犯行に及ばずとも、今日ドスルは殺されるはずだったんだから」
「確かに」
わざわざかなりのリスクを背負ってまで犯行に及ぶメリットは、ないように思えた。
「……あり得ないよ。これは、明らかに人智を超えた事件だ」
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