『選別』Ⅱ

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 ————  『胸騒ぎがする。今から家行っていい?』  ニンジンにそうメールを送ったとき、窓に広がる闇夜からは延々と雨音が響いていた。  スマホの画面には、『6/26 0:00』と表示されている。  『でも、校外でクラスメイトに会うのは禁止されているよ』  ニンジンが正論で返してきた。  『どうしても会いたい』  私は己の欲望を殴り書きしてから、ニンジンの返事も待たずに部屋を飛び出した。  ニンジンの部屋は下の階の一番端っこだ。私はなるべく足音を立てずに廊下を進み、目の前のドアノブをひねった。カギは閉まっていなかった。  ドアを開けると、刹那黴臭さが鼻腔を突いた。 靴を脱ぎ、衣服が散らかって足のやり場の少ない廊下を進む。  壁に下手な戦車の絵がいくつも飾ってあった。やはりそういうのが好きなのだろうか。  短い廊下を出ると、正方形の狭い部屋。奥の壁には羽目殺しの窓。私の部屋の構造と一緒だ。その隅に置かれたベッドの上で、小さい影が体育座りしていた。  「いつもそうやって過ごしてるの?」  私が影に訊ねると、彼は振り向いた。  「絵を描くのに飽きちゃって、何もすることがないんだ」  ニンジンがぎこちなく笑った。相変わらず気味が悪い。  「もう十二時半だよ。寝ないの?」  「あ、あんまり眠くないし」  ふと視線を落とすと、少女の絵が描かれた紙が、大量に床に落ちていた。  それも、ただの人物画ではないらしい。  絵をよく見てみると、どの少女も脚が切断されて切り口から血があふれ出していたり、腹の部分にぽっかりと穴が空いて臓物らしきものが溢れていたりと、体のどこかしらが欠損、損壊していた。  「これ、誰?」  思わず訊ねると、ニンジンは慌てた様子でベッドを飛び降りた。バランスを崩したのか、みじめに床に膝を打ち付ける。  「え、え、あ、それは……その」ニンジンの耳が真っ赤に染まっていた。「お、お母さん……かも」  ニンジンはそう言いながら、床に突っ伏して紙を拾い始めた。私に見られた以上、もう遅いだろう。  「お母さん、見たことあるの?」  「そ、それは……」ニンジンは紙をまとめてゴミ箱に放ると、私をまっすぐ見た。「ないよ」  「じゃあ自分のお母さんを想像して描いたってこと?」  「あはは」ニンジンはベッドに座り込む。「それで、ち、千歳さんはどうしてボクに会いたくなったの?」  私はニンジンの隣に腰を下ろした。外では、ざあざあと雨が降り注いでいる。  「怖くなって」私は正直に打ち明けた。「ドスルがこの学校に来てから、日常が狂い始めたって感じがする」  ドッジとネコヤマが気に入っていた野良猫と鼠が、何者かに殺された。  何の前触れもなくヌーボーとミルクが役人に連れていかれた。それから、それに端を発して次々とクラスメイトが姿を消し始めた。  私たちの日常で均等に並べられていたドミノ。それが、ドスルが現れたことによって突如倒れ始めたように思えてならない。  「た、確かに」  「私もいつか殺されちゃうかもしれない」私はチャーリーを思い浮かべた。「だから、怖い」  頬を涙が伝った。手が震えてきた。  「な、なんでボクに——」  「ニンジンは、人が死んでも怖くないの?」  「……」ニンジンは無表情のまま頷いた。「無知だから、怖くない」  「……え?」  「ボクは死を経験したことがないから、〝死〟について無知だ。だから、死がどんなに恐ろしいものかも分からない。分からないものに対して、恐怖を抱いたって無駄だよ」  ニンジンは、別人みたいに流暢に喋った。その言葉に迷いはなかった。でも私はその言い分を理解できなかった。  「でも、分からないから怖いんじゃないの?」  「たとえば、ボクらは他人を完全に理解することができない。自分以外の誰かになることはできないからね。だから、ボクにとって他人は〝分からないもの〟だ。だからといって、他人の存在に恐怖を抱く必要はない。〝分からないもの〟はどう頑張ったって〝分からないもの〟なんだから、そんなものに興味を持つのは時間の無駄だよ。ボクは自分以外の誰かが生きようが死のうが興味がない。ボクじゃないんだもん」  「……」  私はこれまでにないほど長々と語るニンジンを、しばらく眺めていた。  そういうことだったのか。だからニンジンは、目の前で誰かが死んでも全く驚かなかったのか。 死んだのが自分ではないから。   そんな単純な理由だったことに、私は驚いた。  そしてそんな彼の思想に、溺れた。  彼のような存在を、私は無意識に求めていたのだ。私は確信した。   「……む、昔の小学生のほとんどは、家族と一緒に暮らしていたらしいよ」  「そうなんだ」  「でも、今は違う。小学校に入る前に、親と子は引きはがされる」ニンジンは短い廊下を眺めながら、言った。「なんでか分かる?」  「分からない」  「子供が、愛情を知っちゃうからだ」  「ふーん」私は涙を拭く。「ニンジンにとって、愛情は〝分からないもの〟なの?」  「ど、どうだろう」  ニンジンは首を横に振らなかった。意外な返答だった。  「今日、ここで寝ていい?」  私は勢いに任せて、そう言った。
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