兄に従い

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 天文14年(1545年)本多俊正の四男として生まれた三弥左衛門正重は生まれた。  本多家は徳川家臣団の中では新しい家で、低くみられていた。  桶狭間以後(1560年)、岡崎に戻っていた家康の周りは先代(清康や広忠)以来の家臣ら子息で固められ、正重は兄、弥八郎(正信)と一緒に田畑を耕すくらいしかできなかった。  同じ本多でも、平八郎家の忠勝は、その武名から家康に愛顧され、城に上がり、家康の近くに侍っていた。  同じ本多であるのに、差があった。  しかし、彼の兄である弥八郎正信は数年前に受けた足の怪我から歩行に問題があり、槍働きは期待できなかった。  戦場での働きを期待できなければ、徳川家(このときはまだ松平だが)では、身を立てる余地がない。  なので、この兄は頭を使う方に武士としての比重を傾けていたが、それがかなり評判が悪かった。  というか、兄自身もそうした経緯から、どこか精神が歪み、他者を卑屈に捉えたり、蔑む傾向があったので、家中から嫌われていた。  唯一、大和田の大久保家の七郎左衛門(忠世)のみが、彼の頭脳と知略の深さを惜しみ、理解して付き合っていた。  三弥左衛門と言われた正重は、時に掴む鍬を槍に変え、武辺の立たぬ兄の代わりに戦働きをしようと己を鍛えていた。  そんな彼ら兄弟が影響を受けたのは、三河で流布していた一向宗(浄土真宗)だった。  「“南無阿弥陀仏”と唱えたら、誰でも極楽に向か得る」と説いたこの新興宗教は、足の動きに不足があり、槍働きに劣り、家中から嫌われていた兄の心を捕えた。  正しく言えば、弟の三弥左衛門はそこまで深く帰依してはいない。兄がのめり込むので、それに付き合った、という側面が大きい。  ただ武士として、畑仕事にしか打ち込む場所がなく、槍の技を修練しても披露するべき場所のない境遇に、鬱屈したものを感じていた。  やがて、寺院の不入権(年貢の徴収)問題から、家康と対立した一向宗は、徳川家に蜂起した。  「殿(家康)を匡す(ただす)」と意気込んだ弥八郎は、一向宗側に加わった。  弥八郎だけではない。  渡辺半蔵、蜂屋半之丞など多くの家臣が一向宗側に加わった。  三弥左衛門も兄に従い、一向宗に加わった。  兄はいつの頃からか、西国から伝わった最新兵器の鉄砲を習得していて、三弥左衛門も兄から鉄砲の手ほどきを受け、扱うようになっていた。
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