恋破れるは辛けれど

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恋破れるは辛けれど

 ドアベルが澄んだ音を鳴らした。覚美(さとみ)がドアへ目をやると、来店客がおずおずと入ってくるところだった。  乱れた髪に無精ひげ。くたびれスーツにゆるんだネクタイ。肩は下がって覇気もなし。  ヘタレ男――心の中で名付けると、覚美は眩しいくらいの笑顔を向ける。 「いらっしゃいませ! ようこそ、薬屋『勿忘草(わすれなぐさ)』へ! どうぞご自由にご覧下さい!」 「えっと、その……」  まるで輝く太陽のような元気さで出迎える覚美。それとは対照的に、ヘタレ男はもごもごと口を動かしてから、狭い店内をぐるりと見まわし、 「」  小さな声で言い放った。覚美の目がきらりと光る。 「まさか、頭のおくすりから足に貼る湿布まで何でも揃ってますよ!」 「私の探している薬はここにはありません」 「では、どんな薬をお探しですか?」  覚美の問いに、ヘタレ男はひとつ深呼吸してから、言った。 「――忘れ薬を」 「こちらにおかけください」  手近のテーブルとイスを指してから、覚美はドアへ向かった。『営業中』のボードを『準備中』にひっくり返し、カーテンをすべて閉める。そして、男の待つテーブルへと戻るや、対面のイスにどっかと座った。 「忘れ薬をご所望とのことですが、何を忘れたいのです?」  合言葉を知っている客に前置きはいらない。単刀直入に覚美が尋ねると、ヘタレ男は落とした肩をさらに縮めた。 「先日、とある女性に告白しまして」  そう切り出したヘタレ男の言い分は、こうだ。  ある日、駅で見かけた女性に一目惚れした。駅に着くたびに彼女の姿を探すようになった。彼女が駅を利用する時間も把握した。帰路で何かあってはいけないからと、あとをつけて見守った。もう彼女のことしか目に入らなくなった。  ヘタレ男がぼつぼつと語るのを、覚美は黙って聞いていた。コテコテの営業スマイルを口元に貼り付けて。人それをストーカーと呼ぶ、と思いながら。 「そして半年経った先日、意を決して彼女に告白しました。彼女が家を出るところを待ち構えて、好きです付き合ってくださいと。ですが、その、こっぴどく振られまして。それはもう、立ち直れなくなるくらいに」 「それはお気の毒でしたね。心中お察しします」  憐れむような表情でヘタレ男を慰める覚美。察する気など欠片もないが、憐れんでいるのは本当だった。これほど愚かな男はおるまいて。 「なので、忘れたいんです――彼女に告白したことを」 「なるほどなるほ……は?」  相槌を打っていた覚美の口から、間抜けな声がこぼれ出た。 「えっと、それが、忘れたいことですか?」 「ええ。あんなにひどい振られ方をするくらいなら、いっそ告白しなければよかった。あの記憶がある限り、僕はもう生きていけない。だから、忘れたいんです」 「えー、っと、その、それで、いいんですか?」  これまで幾度となく契約してきた覚美だが、ここまで馬鹿らしく下らない話は初めてだった。思わず、ぶつ切りの言葉で再確認してしまうほどに。 「はい。お願いします」  それでも決意は固く揺るがないようで、ヘタレ男は覚美をまっすぐに見つめて頷く。  うーむ、ぐぬぬぬ、むむむむむ、と腕組みして唸ること約一分。席を立って店奥に引っ込んだ覚美は、一枚の紙きれとボールペン、それと紙幣計算機を手にしてヘタレ男の元へ戻った。 「こちら、契約書です。よく読んで、承諾されるのであれば署名を。あと、お代を渡してください。数えますので」  ヘタレ男は契約書を受け取るとともに、懐から分厚い茶封筒を取り出して覚美に渡した。  覚美は茶封筒を受け取ると、すぐさま中に指を入れ、一センチはあろうかという札束を取り出した。テーブルに置いた紙幣計算機に差し込む。十秒と経たず、計算機は札束を数え終わり、チンという音とともに、枚数が表示される。 「百万円、確かに。契約書は読めましたか?」 「はい。署名も済みました」  差し出された契約書の署名を確かめると、覚美はポケットから手のひらサイズの薬瓶を取り出し、テーブルに置いた。 「これが、その?」 「ええ。忘れ薬です。どうぞ、お手に」  言われて、ヘタレ男は瓶を掴んだ。中身を確かめるように、手の中で瓶を左右に転がす。きらと光るガラスの中で、青紫色の液体がとろりと揺れた。 「では、忘れたいことを強く念じながら、一息に飲み干してください」  覚美に促され、ヘタレ男は瓶のコルク栓を開けた。そして、ごくりと喉を鳴らしてから大きく息を吸うと、瓶を傾けて中身を一気に飲み干した。  ヘタレ男が空になった瓶から口を離す。そのまま無言でふぅと息を吐くや、白目を剥いてぐったりと動かなくなった。  飲んですぐ気絶するのは忘れ薬の副作用のひとつ。覚美は眉ひとつ動かすことなく、腕時計の盤面をじっと見つめる。  待つこと、ちょうど三分。 「大丈夫ですか?」  覚美が声をかけた途端、ヘタレ男はパッと覚醒し、飛び上がらんばかりに背を正した。 「はっ、私は何を? ここは?」  一時的な記憶の混乱、これも副作用のひとつ。少し説明すれば、今の状況くらいはすぐに思い出す。 「落ち着いてください。ここは薬屋で、あなたは忘れ薬を求めて来店し、無事忘れ薬を飲みました」 「そ、そうでしたそうでした。それで、薬を飲んだということは、ちゃんと忘れられたんでしょうか」 「ええ、もちろん。効能は百パーセント保証します」  覚美が自信たっぷりに断言する。それを見たヘタレ男は、右へ左へと何度も首をかしげてから、聞く。 「あの、すみません」 「なんです?」 「私は、何を忘れたんでしょうか」 「それはお答えできません。ほら、契約書にありますので」  つい先ほど交わされた契約書をひらひらと揺らしながら、にんまりと笑う覚美。それはまるで、極上の悪戯を思いついた悪魔のようにも見えた。 「そういえば、あなたには想い人がいたのでは? 薬を飲む前に、確かそんな話をしてましたよ。覚えてます?」  覚美がつらつらと述べた途端、ヘタレ男はイスを倒さんばかりの勢いで立ち上がる。 「そ、そうでした! こうしちゃいられない。あの、ありがとうございました!」  そうして、回れ右したヘタレ男は、ドアを勢いよくぶち開けて退店した。 「ご利用ありがとうございました」  口元の笑みはそのままに、覚美が小さく送り告げた。 「ありがとうございました。お大事にー」  客を送り出した覚美は、ドアのボードを準備中にした。午前の営業は終了、昼休憩の時間となり、覚美は店奥に引っ込んだ。  トースターに食パンを放り込み、紅茶の用意をしながらテレビの電源を入れる。ちょうどお昼のニュースが始まったところだった。 『今朝、都内に住む女性に付きまとったとして、都内在住の男がストーカー規制法違反の疑いで逮捕されました。男の名前は――』  ニュースキャスターが告げた名前を聞いて、覚美の手が止まった。ぽかんと口を開け、テレビ画面を注視する。 『警察によると、男は女性が断ったにもかかわらず執拗に交際するよう申し向けたりするなど、ストーカー行為を繰り返していたとのことで――』  報道を聞くうちに、覚美の口元に笑みが浮かんでいく。間違いない、ヘタレ男だ。 『警察の調べによると男は、、などと供述し容疑を否認しているとのことです』  そこで、たまらず吹き出す覚美。けらけらと、嘲りと悪意に満ちた笑い声が響く。 「ああもう、面白いなぁ本当に。いやはやご契約ありがとうございました」 『それでは、次のニュースです』  ニュースキャスターが次のニュースを読み始める中、覚美はただ一言、吐き捨てるように言った。 「ばーか」
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